コロナウイルス騒動が人為的に起こされたものであり、その計画には創価学会が深く関与していることが分かってきました。
政府(自由民主党)が行ってきたコロナ対策(アベノマスク・GoToトラベルキャンペーンなど)も税金を使って創価学会系企業の懐を潤すためのものでしたし、持続化給付金でも電通の下請けとして創価企業・パソナへ税金が流れ込んでいることが問題となりました。
それもそのはずで、以下の引用文によりますと、安倍政権時の内閣官房長官であり、現在首相を務める菅義偉は「歴代首相の中で創価学会と最も太いパイプを持つ政治家」だと評されています。
菅義偉と創価学会 かつての敵が学会にとって“歴代最も与しやすい首相”になるまで
菅=佐藤ラインの威力
菅義偉首相と創価学会の佐藤浩副会長は、《盟友》と評されるほど緊密な人間関係を築いていることは、これまでに何度もマスコミに報じられてきた。それでも、一般の人は「佐藤浩」という名前を初めて知ったという方も多いだろう。
《盟友》という言葉を使ったのは、経済誌の「週刊エコノミスト」(毎日新聞出版)だ。
電子版の「週刊エコノミストOnline」は9月25日、社会情報大学院大学の北島純特任教授の署名原稿を配信した。
タイトルは、以下のような具合だ。
《デービッド・アトキンソン氏の提言で観光立国を推進、創価学会の佐藤浩副会長と盟友関係、大阪維新の会とも太いパイプ……菅新首相の政治力を支える「人脈」の正体》
その関係が、どれほど緊密なのかを報じたのは朝日新聞だ。9月18日と19日、企画記事の「実像 菅義偉首相」が紙面に掲載された。
18日の見出しは「脱派閥掲げつつ“菅派”着々 若手ら勧誘『政治はやっぱり数』」というものだが、この記事の中に、2人の緊密な結びつきが描写されている。
2015年、消費増税に際して軽減税率を導入するのか、導入するとして範囲をどこまで広げるのかといった問題を巡り、自民党の一部と公明党が対立したことがあった。
この時、菅首相と佐藤副会長が《介入》する場面が朝日新聞には描かれている。
2人で決めた軽減税率
《官房長官だった菅は党執行部の頭越しに調整に介入した。10%へ税率を上げる際の低所得者対策として公明は食料品を8%にとどめるよう主張したが、自民や財務省は渋っていた》
《菅は公明の支持母体・創価学会副会長の佐藤浩から「軽減税率の導入なしに選挙は協力できない」と告げられた》
《佐藤とは国会議員に当選後、菅の選挙区の神奈川で活動していた縁で知己を得た。官房長官に就いてからは政権中枢にいる自身の力と、佐藤が持つ選挙での集票力とを互いに頼んで足場を強化していった》
《菅は首相の安倍晋三を説き伏せ、自民党税調会長を交代させてまで公明の言い値で決着させた》
(註:全角数字を半角にするなど、デイリー新潮の表記法似合わせた、以下同)。菅首相と協力し、公明党の頭越しに軽減税率を導入させてしまう──。この《佐藤副会長》とは一体、どのような人物なのだろうか。
「絶対的な実力者」
総合情報誌「FACTA」(ファクタ出版)は13年10月、佐藤副会長について次のように伝えた。
《選挙参謀でもあり、支持政党・公明党の候補者選びでは今や絶対的な権限を握る実力者とされる》
この記事で、佐藤副会長は53歳と記載されている。すると現在は60歳ということになるだろうか。
(2013年11月号「『創価学会のドン』は死なず 脳梗塞で倒れた池田大作名誉会長が職務に復帰。11月18日の『総本部』竣工祝賀に安倍首相を招き、復活をアピール?」より)
佐藤副会長とはどのような人物なのか、学会ウォッチャーの乙骨正生氏が解説する。
「佐藤氏は大学を卒業すると、杉並区の男子部長に任命されます。その後、全国の男子部長、青年部長とエリートコースの王道を歩んでいきました」
教宣・広宣部長として活躍
「全国の男子・青年部長は、選挙を取り仕切るポジションです。だからこそ出世コースなのですが、佐藤氏は別の仕事で評価され、頭角を現します。人のやりたがらない、厳しい仕事で成果をあげたのです」(同・乙骨氏)
佐藤副部長は教宣部長、広宣部長も歴任している。これが出世の糸口になったという。
「かつて創価学会は日蓮正宗の在家信徒団体という位置づけでしたが、様々な対立の結果、91年に日蓮正宗は創価学会を“破門”します。その日蓮正宗の中で、最も反学会の旗幟を鮮明にしていたのが妙観講というグループで、杉並区に本部があります。この妙観講など、創価学会に敵対的な宗教団体や、マスコミ、ジャーナリストと対応・対峙するのが教宣部長、広宣部長の役割です。精神的にも負担が大きい仕事であるのは言うまでもありませんが、佐藤氏はこれをやり抜くことで、上層部に認められたのです」(同・乙骨氏)
最初の選挙では「反学会」
まさに体を張ることで、創価学会に対する忠誠心を証明したということのようだ。
一方の菅首相だが、初めて衆院選に出馬したのは1996年、この総選挙は新進党が政権交代を謳って自民党に総力戦を挑んだことが最大の特徴だった。
新進党には公明党の一部議員が参加していた。自民党にとっては文字通りの“敵”だった。
そのため菅首相は当時、「自民党からも心配の声が出るほどの反学会キャンペーンを張って選挙を戦った」という。乙骨氏が言う。
「96年11月、自民党の機関紙である『自由新報』が菅さんの選挙のことを取り上げています。菅さんの対立候補は創価学会プロパーの公明党議員で、新進党の結党に参加し、新進党から出馬しました。そのため、菅さんは徹底して学会を攻撃。対立候補が約6万5000票だったのに対し、約7万票を獲得して初当選を果たしました」
集団的自衛権でも協議
ところが1999年、自民党は何と公明党と連立を組んでしまう。
「菅さんは神奈川県の本部に出向き、何度も何度も謝罪したといいます。そして神奈川県における公明党候補を全力で応援するようになっていきました」(同・乙骨氏)
菅=佐藤ラインを、かなり早い段階で報じた新聞の1つに、九州のブロック紙・西日本新聞がある。
同紙は2014年4月5日、「集団的自衛権を追う」という記事を1面と2面に掲載した。クレジットは《東京政治取材班》となっている。冒頭を引用しよう。
《「今国会中に集団的自衛権をやりたい」
安倍晋三政権の大番頭である菅義偉官房長官が切り出した。2月中旬、都内で密会した相手は、公明党の支持母体である創価学会の佐藤浩副会長。全国青年部長を務めた実力者で政界とのパイプ役だ。佐藤氏は即座に首を横に振った。
「のめない。それでは共同歩調は取れない」》
公明党の不興も意に介さず
この記事には《菅氏が党の頭越しに学会幹部と「握った」ことは、公明党に不快感を広げた》とあるが、ある意味では当然だと言える。
学会幹部と官房長官が直接、集団的自衛権という極めて重要な政策について協議しているのだ。公明党の面子は丸潰れだろう。
だが菅首相は、学会とのパイプがある限り公明党は恐るるに足らず、と見透かしていたのかもしれない。
やはり西日本新聞は14年6月28日の朝刊に「読み解く=集団的自衛権 閣議決定案を自公了承 公明ずるずる後退 容認 割れた創価学会」を掲載した。
この記事には、余裕綽々とも取れる菅首相の肉声が記載されている。
《政権中枢に座る菅義偉官房長官や自民党筋は早くから、原田稔会長、佐藤浩副会長ら学会幹部とそれぞれ密会を重ね、感触を探ってきた。「俺は全然心配していない」。菅氏は周囲に度々こう語った》
沖縄県知事選では苦杯
2018年2月、沖縄県の名護市で市長選が行われた。普天間基地移設の是非が争点となった。
移設容認派の渡具知武豊市長が勝利するのだが、「FACTA」は「『名護の勝者』は菅長官と創価学会副会長」(2018年3月号)との記事を掲載した。
《政府筋は「菅義偉官房長官と創価学会の政治担当、佐藤浩副会長の連携がものを言った」と解説する》
《告示後は佐藤氏が選挙事務所に陣取り、自民党議員らに「〇△地区で運動量が足りない。もう一度やり直せ」とハッパをかける場面もあったという》
創価学会の副会長が直接、自民党の議員に指示を出すのだ。“菅官房長官”の後ろ盾がなければできない“越権行為”だろう。
7か月後の9月、沖縄県知事選では玉城デニー知事が勝利し、菅=佐藤ラインは苦杯をなめた。が、2人の信頼関係は揺らがなかったようだ。
与しやすい首相
2019年の北海道知事選で鈴木直道知事が勝利したのは、菅=佐藤ラインの“暗躍”があったからだと、これもFACTAが報じた。
(2019年6月号「『令和おじさんの天領』と化す北海道 菅官房長官が道政に入れあげるのにはワケがある。傀儡知事の誕生は、自らを首相候補に押し上げるから」)
政治担当記者は「2人の“蜜月”は強化されることはあっても、距離が離れるようなことはありませんでした」と振り返る。
「2014年の総選挙では、維新の会が大阪の選挙区で対公明党の“刺客”を放つ構えを見せると、当時の菅官房長官は佐藤副会長の意向を受けて維新側と協議。結局、維新は立候補を取り下げてしまいます。この深く結ばれた関係を学会側から見ると、自分たちの声に耳を傾けてくれる政治家が首相にまで登り詰めたわけです。『菅首相なら、最も与しやすい』と考えていたとしても不思議はないと思います」
菅首相に期待を寄せる学会
乙骨氏は、創価学会とこれだけ太いパイプを持つ政治家が首相に就任したのは、「日本の憲政史上、恐らく初めてでしょう」と言う。
「創価学会は政教一致の批判を回避するため、自分たちは政治家と直接コンタクトせず、公明党を間に挟むことを心がけていました。その大前提を崩したのが菅=佐藤ラインということになります」
創価学会にとっては、自分たちのほうを向いてくれる首相の存在が、ありがたいのは言うまでもない。
「創価学会は今年の11月に90周年を迎えますが、菅政権の誕生はまたとない朗報でしょう。今後を考えると、来年1月に93歳を迎える池田大作名誉会長の健康状態が大きな問題になります。学会のXデーに対する備えはあるでしょうが、実際に起きたとなると、様々な混乱が生じるかもしれません。こうした状況の中、菅さんが首相であることは、心強いはずです」(同・乙骨氏)
このような自由民主党と創価学会の癒着は、自公連立政権が始まった1999年の小渕恵三内閣時代から続くものだと言われていますが、自由民主党の政治家と創価学会という観点で見ると、その関係は想像以上に古くから続くのものでありました。
田中派の流れをくむ小渕恵三が首相の時に自公連立が始まったため、田中派と創価学会が近いように考えられています。確かに、『創価学会を斬る』という本の問題では田中角栄が動きますが、もともとは岸信介と創価学会第二代会長の戸田城聖の関係の方が深いのです。
当時の聖教新聞に出ている話だということですが、岸信介は首相の時、創価学会の儀式に招かれ、その儀式が出席しようとしていました。さすがに現役の首相が出ては問題になりますから、思いとどまった方がいいと言う人がいて、夫人の良子と、娘の岸洋子、その旦那の安倍晋太郎、つまり安倍晋三のお母さんとお父さんが出たのです。事実、安倍晋三自身が、その後、首相になってから公明党の大会に出て、「御党と岸家の関係は、自分の祖父の代にまでさかのぼる」と言っています。
岸信介が死亡した際に聖教新聞が一面トップで報じ、追悼記事を組んだということですので、岸信介と創価学会がどれほど深い関係にあったのかがよく分かります。
公明党は田中角栄以来、竹下派─小渕派─橋本派というラインとの関係が深いことはよく知られています。しかし、じつは創価学会は戸田城聖会長の時代から、岸信介と関係が深かったんです。岸さんが亡くたったときには聖教新聞が一面トップで大きく報じ、追悼記事を組んだほどです。
このような関係が孫の安倍晋三まで三代に亘って続いているということなので、安倍晋三と創価学会との親密さが分かる情報を探してみました。
週刊誌『AERA』によると、安倍は、小選挙区制度が導入されて二大政党制に近づけば、創価学会は自分から離れてゆくとの判断から、1994年に創価学会と公明党に批判的な宗教団体や有識者で結成された「四月会」(代表幹事:俵孝太郎)の集会などに参加したこともあったと報じられている。また、創価学会に関する自民党の勉強会『憲法20条を考える会』に参加した次の日、自身の選挙区の公明党の大幹部から電話で釘を刺されたことで、政治的野望を持った創価学会が政界での影響力を拡大して行くことを危険視していたという。
首相就任直前の2006年9月22日に極秘裏に東京都内の創価学会の施設で、池田大作創価学会名誉会長と会談を持ったと『日経新聞』・『毎日新聞』・『朝日新聞』・『読売新聞』や『週刊文春』などが報じた。毎日は20日と報道。安倍は池田に父との生前のつきあいについて感謝の意を表し、「参院選での公明党や創価学会の協力を要請」し、池田は「協力を約束した」という。また、「日中関係の早期改善が重要との認識で一致」したという。同月30日には公明党大会に来賓として出席し、祖父も父も「公明党とは交友関係が深かった」として「何か特別な運命を感じる」と語った。
その後、国会で池田と面会した事実があったかという野党の質問に対して、安倍は「そういうことはございません。」と答弁した。2007年2月13日の衆議院予算委員会でも同様に否定した。
安倍晋三は父・晋太郎の急死(1991年)を受け、1993年に父の基盤を受け継ぎ、衆議院選挙で当選して国会議員となりますが、当時の自由民主党は創価学会と対立関係にあったため、安倍晋三も創価学会を敵視する姿勢を取っていたようですね。
Wikipediaを見ると、「四月会」は「創価学会と細川連立政権下の公明党及び新進党に批判的な宗教団体や有識者の集まり」とされ、神社本庁系の「神道政治連盟」、伝統仏教系の「全日本仏教会 」、新興宗教系の「新日本宗教団体連合会」などが参加しています。
また、「日本会議」は新日本宗教団体連合会を1957年に脱退した「生長の家」によって作られた「日本を守る会」から続く極右団体ですが、神社本庁や新日本宗教団体連合会に加盟する宗教団体も参加しています。
安倍晋三は日本会議の関連団体一つで、国会議員によって組織される「日本会議国会議員懇談会」の特別顧問を務めていましたね。
◯日本の裏社会のエージェントが目指す道はただ一つ。国家神道の復活です。
◯「森友学園」問題の本当のカラクリ。日本の政治もマスコミも「麻生太郎」のために動かされている。
それに加えて安倍晋三は統一教会(現・国際勝共連合)とも親密な関係にありました。
このように見ていくと、創価学会と公明党との関係だけでなく、日本の政治と宗教団体との癒着は切っても切れないほど強固な関係であり、「政教分離」という概念が「民主主義」という統治体制が平等なものであるかのように庶民に思わせるための詭弁でしかないことが分かりますね。
自己防衛のためにイルミナティ・上級国民の行動原理を知る(シオンの議定書)
引用したWikipediaの文章では、安倍晋三と創価学会の親密さが分かりにくいので、別な情報から引用したいと思います。
『週刊文春』 2006.10.19
池田大作に膝を屈した安倍と小泉
9月22日、番記者にウソをついて創価学会のドンに面会した安倍首相。
訪中では手土産に「皇族外遊」も。「闘う政治家」がなぜ「媚びる政治家」──九月二十二日、自民党総裁に就任したばかりの安倍晋三官房長官(当時)は朝から落ち着きなく、頻りに目をしばたたかせていた。
午前十一時から“参院のドン”青木幹雄党参院議員会長との会談が入っていたが、これが原因でナーバスになっていたわけではない。
党本部での会談を早々に終えると、安倍氏は官邸に戻り番記者たちとの退任前の記念撮影に応じた。夜討ち朝駆けの毎日に明け暮れた記者たちに労いの言葉をかけつつ、官邸に隣接する官房長官公邸に戻るようなフリをして、安倍氏はその場を立ち去った。
だが、安倍氏の乗り込んだ車が向かった先は公邸ではなく、創価学会本部をはじめ関連施設の立ち並ぶ新宿区信濃町だった──。
「各社とも安倍氏を見失ったときは大騒ぎで、入閣候補者に会いに行ったとの憶測も流れました。結局、安倍氏側は、公邸にいたが所在を示すランプが消えていただけと説明しました」(政治部デスク)
午後二時前、安倍氏を乗せた車は創価学会本部から少し離れた関連施設に到着した。安倍氏が部屋に入ると、そこにはにこやかな表情で歓待する池田大作名誉会長の姿があった。
会談前日、安倍氏は創価学会の秋谷栄之助会長に自ら電話していた。総裁就任の挨拶に訪れる旨を伝えると同時に、「できれば池田名誉会長にお会いしたい」と依頼していたのだ。
だが、池田名誉会長は政治利用への警戒心から、少なくとも最近十数年間は政治家と面談していない。では、なぜ総理就任直前の安倍氏とは会ったのだろうか。
「実は安倍氏の父、晋太郎元外相は池田氏と非常に懇意だったのです。選挙で学会から支援も受けていました。そうした縁から安倍氏は父の秘書時代から秋谷会長と面識があるのです。また、祖父の岸信介元首相も二代目の会長である戸田城聖氏と親しかったので、学会とは三代にわたる付き合いなのです」(創価学会に詳しいフリージャーナリスト)
安倍氏と池田氏は、岸元首相、安倍元外相との思い出話に花を咲かせ、「あっという間に二時間近くが過ぎた」(安倍氏周辺)という。当然のことながら、安倍・池田会談は双方合意のもと「なかったこと」にされた。安倍氏にとって一宗教団体のトップとの会談が公になれば、総理就任早々に世論の批判を浴びることは確実だったからだ。
それから約一週間後の二十八日、やはり関連施設で小泉純一郎前首相が池田名誉会長と向き合っていた。
「在任中には公明党さんには本当にいろいろお世話になりました」
先の衆院選では二百九十六議席と大勝した小泉・自民党だったが、過去には学会の協力なしには危うい場面もあった。退任後の総理自らが池田氏のもとを訪れ、感謝の辞を述べるという異例の事態が、公称八百万世帯を誇る創価学会の威力を物語っている。
公明党と創価学会とは、建前上は政党と支持団体という位置づけだが、小泉前首相の言葉は両者が実質的に一体である実態を表わしているともいえよう。そして総裁就任の挨拶に訪れた安倍氏の狙いが、十月二十二日に投票日を迎える衆院統一補欠選挙での協力にあることも、小泉前首相の言葉から明白である。
だが、かつて安倍首相は創価学会を「戦闘集団」と批判していた過去がある。安倍氏が一年生議員のころ細川政権によって自民党は野党に転落していた。
「(註・細川政権という)旧連立が、創価学会というきわめて強力な戦闘集団(とりわけ選挙においては)と手を組んだ、異常で強権的な政権であった(中略)そうすると、この政権のあり方には大変大きな問題と危険性が存在してくる」(『「保守革命」宣言』栗本慎一郎氏他との共著)
また、九四年十一月に開かれた創価学会に批判的な「四月会」の集会に参加して、こう発言している。
「父の代から創価学会に支援していただいた。ところが、『憲法二十条を考える会』の集まりに参加した翌日、公明党の地元幹部から電話があり、『考え直さないといけない』と言われた。恐ろしい団体と思った」
ところが、首相就任後に参加した九月三十日の公明党大会で安倍首相は、「連立政権の基盤強化が日本のためだ」と力説した。“ブレない政治家”だったはずの安倍氏は、首相になって“変節”したようだ。
安倍首相が訪中する前日の十月七日、創価大学で池田名誉会長への二百番目の名誉学術称号授与式が行なわれた。
首脳会談実現の「ハードル」
「久しぶりに姿を現した池田氏は、周恩来元総理との交友に触れながら『日中の平和友好は絶対に崩れない』と語り、今後は環境問題などで日中が協力すべきという方針を打ち出しました。そこで、『安(あん)ちゃんにもよく言っておいた』と発言したそうです」(前出・フリージャーナリスト)
九月二十二日に行なわれた安倍氏との会談の内容をさりげなく示唆したのだ。
…(略)…
『週刊新潮』 2006.10.19
「池田大作」に仁義を切った「安倍首相」
安倍晋三首相が創価学会の池田大作名誉会長と極秘に面会していたのだという。
「複数の新聞が報じたところによると、会談が行われたのは都内の学会施設。自民党総裁選の2日後、首相就任前の9月22日のことです。会談は安倍氏側から申し入れたもので、この席で安倍氏は来年の参院選での協力を要請し、日中関係についても意見交換した。28日には小泉純一郎前首相も池田氏に会ったとのことです」(政治部デスク)
安倍事務所、創価学会とも会見の事実を否定するが、「池田氏は10月7日に北京師範大学から名誉教授の称号を受けましたが、実は安倍氏はこの時、池田氏にあてて祝電を送っています」
と言うのは、ある学会ウォッチャー。
「安倍家と学会の関係は、昭和33年に日蓮正宗総本山の大石寺で行われた大講堂落慶法要に、首相の祖父・岸信介首相の名代として父・晋太郎氏が出席して以来。ただ数年前、池田氏の代理人が晋太郎氏の墓参を申し出たところ、晋三氏はそれを断った。池田氏はこれに激怒し、以来、両者の関係はギクシャクしていたはずなのですが……」(同)
だが、安倍首相にも様々な″事情″がある。
「22日に行われる二つの衆院補選は自民にとって2勝が義務付けられていますが、大阪は学会票の上積みがなければ絶対に勝てない。新政権最初の選挙で躓くわけにはいきませんからね」
とある自民党ベテラン議員秘書。ジャーナリストの乙骨正生氏はこう言う。
「小泉前首相も就任当初は学会と距離を置いていましたが、劣勢だった02年10月の補選を前に学会と手を結び、1ヵ月後の公明党大会で池田氏の撮った写真を絶賛した。安倍氏の場合は、その時期が早かったということでしよう」
選挙のために、仁義を切ったということなのか。
安倍晋三の父・晋太郎は創価学会から選挙協力を受けていて、死去した後は池田大作の代理人が墓参りをしていたということなので、安倍家と創価学会は相当親密な関係だったことが窺がえます。
また、安倍晋三のWikipediaによると、友人としてアグネス・チャンの名前が挙がっています。
友人
アグネス・チャン
20代から30代の頃にアグネス・チャンの熱心なファンであった。チャンとは親交がありたびたび食事をともにしている。安倍晋三 – Wikipedia
アグネス・チャンといえば、池田大作が「山本伸一」のペンネームで作詞をするほど、創価学会と関係が深い人物です。
◯ベネッセ・ユニセフ・外務省・皇室・創価学会との奇妙なつながり。この日本はごく一握りの人間によって支配されている。
◯天皇家という闇。日本赤十字社という闇。田布施システムという闇。悪魔崇拝者という闇。
このアグネス・チャンとの友人関係も、祖父の代から続く創価学会との関係が影響していることは間違いなさそうです。
そこで、岸信介が親子三代続く創価学会との親密な関係をどのようにして築いていったのか、創価学会二代目会長・戸田城聖との関係を見ていくことにします。
岸信介と戸田城聖(創価学会第二代会長)
岸信介は戦後の日本を大日本帝国憲法(明治憲法)施行下の状態に戻す(保守)ことを目的とし、憲法改正を実現するために当時の首相・吉田茂と対立する政治家たちに声を掛けて(保守合同)、自由民主党を創設したと言われています。
占領下のほとんどは吉田茂内閣だった。
戦中から親米派だった吉田茂は対米従属で、1951年のサンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約を 結んだ。
軽武装のまま、アメリカに守ってもらえる、経済復興に集中できると考えたのだ。
吉田茂のライバルに岸信介がいた。
岸は東条内閣の商工大臣をつとめ、戦後はA級戦犯として巣鴨プリズンに収容されていた。
1948年、公職追放解除により釈放され、いったんは山口県に帰ったが、吉田茂の対米従属を批判し、再び政治の舞台に立つ決意をした。
こうして、追放解除を受けた政治家・岸信介と、戦後の日本を肯定して育ってきた政治家・吉田茂の対立が始まった。
岸信介は、アメリカ占領下にできた日本国憲法の改正を主張し、保守合同を実現させた。
吉田茂は敗れ、 自由党と鳩山一郎の日本民主党が合同して自由民主党が誕生し、55年体制が作られた。
鳩山一郎と吉田茂の仲の悪さも有名で、吉田のアメリカ中心の外交から一転して、日ソ共同宣言に調印してソ連との国交を回復したりと、外交に力を入れた。
岸信介と創価学会第二代会長の戸田城聖がどのようにして二人が出会うことになったのか、以下の引用文にてご確認ください。
今ではあまりに有名な話となっているが、岸は敗戦後、A級戦犯容疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に収監された。しかし、中華人民共和国の成立と朝鮮戦争の勃発が契機となって、日本は日本国憲法の下で民主化を徹底する場所ではなく、「反共の砦」として位置づけなおされる、いわゆる「逆コース」をたどることとなる。つまりかつての戦犯が敗戦後はむしろ反共の要人として再注目され、その文脈で岸信介も釈放され、1953(昭和28)年の総選挙で政界復帰した。アメリカは敗戦後の日本が反米化することを極度に恐れ、CIAを経由して反共工作を岸に任せていたことが明らかとなっている。
そして首相になってからの岸は軍備拡張を図る中で訪米する。そこでアイゼンハワー大統領やダレス国務長官と会談し、議会でも演説するが、そこでの話の内容は以下の点にあった。
一、自由世界を守るためには日米の緊密な協力が必要である。
二、日本は国力の許すかぎり自衛力を増強しようと努力している。
三、日米安保条約を早急に改定したい。(半藤一利『昭和史 戦後篇 1945―1989』
平凡社ライブラリー、2009年、p423)これは2014年の集団的自衛権の解釈改憲の閣議決定、翌15年の米連邦議会での安保法制の成立を事前に約束した安倍晋三首相の演説、そしてその制定を通して日米安保条約の正式な改定なき実質的変更を行った安倍内閣の政治と見事に一致する。日本の国民は、祖父が果たせなかった遺志を孫が成し遂げたという私的な物語を披露された形となる。
この岸信介-安倍晋三ラインの物語を、創価学会との関係でもう一段深く理解するためには戸田城聖(第2代会長)と岸信介の友好関係という伏線について触れなければならないだろう。岸は、偶然にも戸田と巣鴨拘置所で知り合う。歴史の皮肉か。戸田は、1956(昭和31)年に決選投票で首相となった石橋湛山が翌57年に日蓮宗の権大僧正になったことを国に災いがあると語っており、その対抗馬だった岸信介が首相になることを祈ったという。
(戸田城聖『戸田城聖全集(第4巻講演編)』
聖教新聞社、1984年、p532)この戦いは、アメリカ追従を主張していた岸信介と、社会主義圏とも国交正常化することを主張した石橋湛山との戦いだった。日本にとっての対米従属か独自路線かの路線選択をめぐる戦いだったといえる。総裁選に石橋は勝つも直後に病に倒れ、結局、岸が総理大臣に就き、安保改定へと突き進んでいく。
岸信介はA級戦犯として巣鴨プリズンに収監されていた当時に創価学会第二代会長の戸田城聖と知り合い、出所後も懇意にしていたということですから、自由民主党は創設された当初から創価学会と近い関係にあったということになりますね。
また、こちらの論説は創価大学の前田教授によるものなので、余計なフィルターを取り除いた他の資料も見てみましょう。
1958(昭和33)年3月1日に日蓮正宗総本山富士大石寺で行なわれた“法華本門大講堂”の落慶法要には、当初、時の内閣総理大臣岸信介と前文部大臣松永東の出席が予定されていた。
しかしそれに対して自民党党内実力者の強い反対により、岸、松永ともに欠席した。岸首相は代理として夫人と秘書官であった娘婿の安倍晋太郎を出席させた。
戸田は当日のあいさつの中で次ぎの様に語った。
《岸先生の名声のある限り、このお山で岸先生の武運長久を祈ろうと思った。これはお山で大問題でありました。法主さまに直接私が談判して(中略)だいたい御了承願った》
戸田は法華講大講頭、創価学会々長という地位と大講堂の寄進という「ムチとアメ」を利用し、日蓮正宗の信者でもない岸首相の「武運長久」を総本山で祈願させようとし、それが大体認められた……この事実は戸田の逝去によってウヤムヤになったが、この事は当時すでに学会と政治権力がきわめて緊密な関係にあった事を物語るものである。
たとえば、政財界の大物のひとりであった塚本素山は日蓮正宗の法華講信徒でもあり、戸田ともきわめて近しい関係にあった。
戦前の創価教育学会時代、すでに政治家たちとの関係はできていた。犬養毅、鳩山一郎、河野一郎、松野鶴平、などなど。さらに、戸田が終戦間際から戦後にかけて事業の再建についてアドバイスをうけた古島一雄は犬養毅の盟友であり、戦前から交友関係があった。
岸との関係は、戦前からとも、戦後巣鴨拘置所で出会ったともいわれているが、詳しいことは明らかではない。しかし、戸田が戦後、巣鴨拘置所に何度も通ったことは事実である。(余談ではあるが、その際に、いわゆる「BC級戦犯」のひとりに対して、わら半紙のようなものに「南無妙法蓮華経」と書いて拝むように勧めたという事実もある。)
また、右翼の児玉誉士夫とは岸を通じて知りあったといわれている。
ちなみに、児玉は後年、外国人記者のインタビューに答えて、「創価学会のおかげで日本は共産革命から守られた」というような発言をしている。
岸信介が反共工作のために立てられたCIAのエージェントだったということは、引用した資料にも記述がある通り、一般にも広く知られているところです。
また、「戸田城聖が巣鴨拘置所に何度も通ったことは事実である」との記述があることから、岸信介と戸田城聖が出会ったのが単なる偶然ではなく、計画的なものであることが分かります。
そうなると、戸田城聖が何度も巣鴨プリズンに通った目的は何なのでしょうか?
岸信介と戸田城聖が出会ったとされる当時は第二次世界大戦が終わり、東西冷戦と呼ばれた米ソの対立が本格化し始めた頃で、まだ世界のイルミナティたちが表立って権力闘争をしていた時代です。
視点を変えて敗戦によって権力が失墜した日本のイルミナティたちの立場から見ると、失った地位や権力を回復していくために色々と策動していた状況だったと考えられます。
そのように考えると、戦前から政治家とも交友関係があったとされる戸田城聖が、戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監されていた人たち(満州人脈関係)に、日本のイルミナティの計画を伝える役割を担っていたのではないかという答えに辿り着きました。
岸信介が憲法改正にこだわったのも、日本のイルミナティの地位や権力を戦前の状態に戻すことを目的にしたものだと考えると、岸信介が単なるCIAのエージェントではないことが分かります。
◯安倍晋三も岸信介もアメリカに利用されていたのではなく、実はアメリカに送り込まれた天皇のスパイだったのではないか。
上記引用文で省略されている戸田城聖の発言を見ると、岸信介と戸田城聖が親密な関係だったことが分かります。
昭和33年3月16日に大石寺で催された、「広宣流布の記念式典」に、当時首相だった岸を戸田会長は招待しました。自民党内部の反対のために岸は出席しませんでした。
岸首相に圧力をかけたのは宿谷栄一元参院議員と池田正之輔衆院議員で、それら議員のバックには創価学会と対立する日蓮宗が控えていた。
そして岸首相の代わりに当日やって来たのは、岸首相夫人、南条徳男前建設相、岸首相の娘婿の安倍晋太郎秘書、そして東京都の安井誠一郎都知事であったが、戸田は南条に「あんたは岸首相の四天王と言われているそうだが、八天王ぐらいだろう」と嫌味を言っている。
「宗教界の王者」
少しからだを悪くして、口は前より三人前ぐらい達者になったが、足の方が三分の一に減ってしまって、どうもこれは、どっちがいいものだかな。あかばかりたまって、洗うのにほねがおれる。
いや、岸総理もなかなかりっぱなお方でありましてね。このあいだ、週刊朝日かなんかで見たというて、わしにある人が報告しましたが、加屋さんにある人が、岸はだめだ、だから、もう少しりっぱな人物を立てなければといったら、今、日本の国で、岸をおいたらほかに人物がいるかと、加屋さんが答えたそうだよ。ほんとうに書いてあったかどうか、私が見たのではないけれども。
私は心のなかから、あの人が幹事長のときから思っているのです。日本の政権を保って、社会党と共産党をおさえていける人は、岸先生しかいないということを、あの人が幹事長のときに深く心に思うて尊敬していたのです。
今度も、ついたちの落慶法要にはこれないっていうから、そのあとはどうだといったら、十六日なら行こうというから、きょうを楽しみにしておったのですが。なにしろ商売が商売だからね。月給は安いものだよ。一国の総理だって、いくらも、もらわないのだよ。しかし、こき使われることはずいぶんこき使われるらしい。きょうも昼までに東京にこなければだめだと、電話がかかってきたそうだ。岸さんは『きょうは、ほかに約束があるからだめだ』と断わったが、どうしてもきてもらわなければ話が終わらない、よって、無理にね……。なにしろ自民党のあれだけの大世帯を背負って立っているのだもの。それはしかたがないでしょう。
しかし、お嬢さんと坊ちゃんと奥さまと、その他自分がこの人と頼む人々をですね、さしむけて本山へよこされたその誠意というものは、私は心からうれしく思う。帰ったら改めてお礼も言おうと思うけれども、ここの電話では礼を言うわけにはいかないのだよ。電話が聞こえないうちに料金が高くてね。礼を少し長く言うと七百円だ、八百円だとかとられ(ママ)しまう。東京へ帰って電話すれば七円ですむのだから。東京へ行ってから、よくお礼を言うつもりです。私が礼を言ったら、会長は十四円ぐらいのところでやったなと思ってください。
まあ、ここ四、五年は、その先はわからないよ。岸総理に日本の国を、まあなんとかしてもらうさ。まあ、それ以外に方法はないよ。きょうきてくれればなにも文句はなかったのだよ。ないっていったって、商売が商売だからね。あれがほかの商売なら、きょう豚を殺さなければ、あすにはどうこうということはない。まあ一晩ぐらい生かしておいたっていいではないか。あす殺せやということができる。しかし、これは日本の政局上、もう一時間はずれても、大きな波動をもたらしますからね。岸先生がどうしてもこられないって、そうおっしゃる以上には、これはやむをえないと心で思いました。
しかし、奥さまもおいでくだすったし、坊ちゃまも、それからご親せきの方もおいでくだすって、しかも前の建設大臣だよ。いまではないですよ、お古のほうだよ。お古の建設大臣。岸四天王のひとりだとうわさがあるが中身はわからない。八天王のひとりかもしれない。そういうふうに、これまでの人をつけて、岸先生がこの御本山を思うてくれた真心には、戸田は感謝にたえない。
このたびも、石橋湛山君が身延へお参りして、そうしてなんとかの衣をもらって、位を何級かもらって、中風になってしまって。それだけはさしたくないと、岸先生の名声のある限り、このお山で岸先生の武運長久を祈ろうと思った。
これはお山で大問題でありました。法主さまに直接私が談判して……、あれでまあ、宗務院ではどうのこうの畳を二枚あげてやるとか、さげてやるとかね。なにしろ、ここは徳川時代より古いのだから。足利政府よりふるいのだから、じつに古い寺ですからね。しきたりがじつにやかましいのです。まあ、そんなことはどうでもいいから、畳が足りなければ私が買ってくるから、いくらもしないよ、あんなもの。だからそれを飾って岸先生の武運長久を祈ってやってくれと、ね、そしておからだも丈夫に、また日本の政治も、岸先生が、両岸だ、無岸だ、岸がねえ……などといわれてね。そんなこといわれたって、それは政治家はあたりまえのことで、なんでもないことです。なんでもないことだけれども、そのなかから岸先生のあのたくましい男の生命をですね、盛り上がってくるように、御本尊様へお願いしてください、とこうお願いしたのです。だいたい御了承願ったのが、きょうそれができない、ただそれが残念なだけだ。
だが、きょうできなくってもいいではないか。正法に帰依する者が、いっぺんで帰依したおぼえはないのだから。君らまじめな顔をしてそこにおれば、正法の話を聞いてすぐにそうしたと思っているかもしらんけれども、さんざんいわれて、いやな思いをして、そして正法に帰依してよくなったのだから、岸さんにそれをやらさせたくなかっただけの僕の友情だよ。
だから、きょうは、御家族に、満足していただくってもね、この山中では、なにも満足してもらうものはないですよ。富士山を見てもらうのと、杉を見てもらうしかない。創価学会といえば、新興宗教というアダ名がある。新興宗教にこんな大きな杉の木があるかい。こんなものが、三年や五年でつくれる方法があったら、私は新興宗教のいちばんのトップをやるよ。これは六百何十年、七百年近い歴史をもった寺なのですから、まあ岸先生も、きょうは残念に思っていらっしゃる。それは、よくわしは、岸総理の胸の中が浮かばれる。
岸先生の敗軍や、勝ちいくさなどというのは、わしには問題にならない。岸先生が総理だから偉いと思ったおぼえはありません。岸先生が、これからどんな立場にお立ちになっても、わしは悪い人だとは思いません。それが友人の真心ではないでしょうか。君らも、そういう心で、岸先生と付き合ってください。私も付き合うつもりだ。そのうちに御授戒を受けるよ。
今、その、御本尊様よりね、票のほうが御本尊様よりよく見える年なのだから。一票二票とはいるだろう。あれがなんだかありがたく見える年なのだから。それは見させておいてあげなさい。
同じ岸系といっても、いろいろあるな。ここらでへたくそにたった代議士の応援などやるなよ。私は宗教団体の王様なのだから、岸先生は政治団体の王様なのだ。立場が違うだけです。ただ人間を理解し合えばいいのだよ。まあ、少し話が長すぎちゃったよ。まだ話してやりたいことはたくさんあるけれども、これくらいでよしておこう。
昭和33年3月16日
岸首相夫人一行を迎う
日蓮正宗総本山富士大石寺『戸田城聖 講演集 下』
昭和36年10月12日 初版発行
このような岸信介と戸田城聖の関係により、娘婿の安倍晋太郎、孫の晋三と三代にわたる創価学会との親密な関係が続いているということです。
「岸信介」「戸田城聖」で検索して得られる情報ではこの程度の情報しか出てこないため、二人が出会った経緯や周辺の人間関係が見えてきませんし、物足りなさも感じておられることでしょう。
そこで次は、「戸田城聖ときわめて近しい政財界の大物」と引用文で紹介されていた、創価学会初代顧問・塚本素山について見ていきたいと思います。
岸信介と塚本素山(創価学会初代顧問)
創価学会初代顧問・塚本素山
岸信介は創価学会の初代顧問であり、創価学会第三代会長に池田大作を推したとされる塚本素山とも関係があったようです。
いきなり「塚本素山」と言われても、名前すら聞いたことがないという方が大半だと思われますので、先ずは塚本素山がどのような人物なのかを見ていきましょう。
塚本素山に頭が上がらなかった池田大作
1961年(昭和36年)、創価学会に顧問制度が創設され、法華講連合会会長(当時、初代委員長)の平沢益吉、三菱銀行員の戸田喬久の2人と共に創価学会顧問(初代)に就任する。
1969年(昭和44年)8月、藤原弘達の『創価学会を斬る』が出版されそうになると、小佐野賢治や田中角栄に、8000万円で出版を止めさせる交渉をさせた。これが世論で問題にされて以来、創価学会の活動は鈍くなった。
このように塚本素山は小佐野賢治や田中角栄など財界や政界の大物を動かす力を持っていたようです。
このことからも塚本素山が相当な実力者であることが分かりますね。
尚、田中角栄と創価学会の関係は改めて詳しく見ていくことにします。
また、池田大作が創価学会第三代会長に就任するにおいて、塚本素山の資金を利用していたようです。
名誉会長は、戸田会長の事業・高利貸し業に従事していた時から、大変な高給取り。当時で月額20万円以上とさえいわれている。その上、当時の学会では資産家といわれた白木家との姻戚関係を持ち、さらに政商・塚本素山氏とも親しかった。
こうした財力にものを言わせ、青年部幹部らの歓心を買い、参謀室を足がかりにして、選挙戦を仕切ることで、参謀室を青年部機関から学会総体の機関に引き上げて、覇権をめざしたのである。
その後、池田大作が三代目会長に就任してからは、塚本素山の人脈をフル活用し、創価学会は勢力を拡大させていったようです。そのため、あの池田大作も塚本素山には頭が上がらなかったそうです。
池田が頭を下げた4人の人物
「共・創和解」の工作について、池田とその若手側近団の敗北が決定的になった、昨年(昭和50年)9月、積極的に流された、興味あるひとつの情報があった。
「共・創和解の不始末について、池田は4人の人物に頭を下げ、陳謝した」というものである。4人の人物としては、秋谷栄之助副会長、矢野絢也公明党書記長、中西治雄秘書室長、塚本素山・塚本総業社長の名前があげられた。はたして池田が、本当にこの4人に陳謝したか否かは定かではない。しかしこの情報は、創価学会の性格づけをめぐって、当時池田と、池田と対立した勢カと、両者の力関係を正確に表明している。
何故、秋谷、矢野、中西らの名前が出てくるのか、その理由についてはこの連載が繰り返し述べてきた。秋谷は反共・反日共に固執する、戸田門下生団の代表格しての、表・創価学会のリーダーであり、中西は裏・創価学会のリーダーである。さらに矢野は、秋谷、中西と連合を組み、共産党との対決路線を押し進める、公明党と学会のパイプ役である。
緊張緩和(デタント)を志向し、日共との和解をすすめた池田とその若手門下団は、学会の支配権を賭けて彼らと闘い、彼ら戸田門下団の強固な反共意識と結束の前に敗れ去ったのである。
元学会顧問塚本素山
では残る一人、塚本素山とは何者なのか。注意深い読者なら、その名前が最近の新聞、雑誌にたびたび登揚する名前であることに気づかれるに違いない。ロッキード事件の主役、児玉誉土夫の事務所がある、東京・銀座の塚本素山ビルの持ち主がその人物である。塚本総業本杜も、そのビルの中にある。
塚本素山、本名塚本清。明治40年9月1日生まれ、68歳。千葉県出身、昭和10年陸士卒組で、陸軍少佐東部軍、司令官田中静萱大将の専属副官として終戦を迎えた。復員して実業界入りを果たし、昭和31年日鉄中央機械、日新興業、日新実業をまとめて塚本総業を設立し、その代表取締役に就任。
塚本総業は、鋼材、建材、燃料、機械の販売と不動産業などを営業種目とする、非上場会杜。株式の97・3%は塚本素山の持ち株である、完全な個人会社である。全国に11店の支店を持ち、日本製鉄、住友金属、大和製鋼、久保田鉄工、石川島播磨重工などと取引を行なっている。塚本総業に加えて塚本は、塚本不動産、八盛興業各社長。日新興業、大和通運各会長。日本カーフェリー、ニューナラヤ各取締役などを兼任。押しも押されぬ、財界の顔役の一人だという。
この塚本が、激しい反共思想の持ち主であり、日蓮正宗・創価学会の有カな信者だった。誰に聞いても即座に「塚本は腹のすわった国家主義者、筋金入りの反共主義者だ」という答えがはね返ってくる。立身三京流居合術の免許皆伝、日本刀美術館長。塚本と学会のつながりは、二代会長戸田城聖の時代にまでさかのぼるといわれ、戸田の激しい反共意識と相呼応する戸田門下団、つまり壮年部の代表的信者として位置づけられていたのだった。
塚本の学会内における地位が、並々ならぬものであることは、かつて彼が創価学会・顧問の地位にあったことによってもうかがえる。昭和36年、第三代会長池田は「学会の基盤をより強固なものにする」という名目のもとに、顧問制度を創設し、この顧問に法華講連合会初代会長平択益吉(故人)、戸田城聖の遺児戸田喬久(三菱銀行勤務)、そして塚本の3人を就任させた。
事実、塚本は顧問の肩書をもって、たびたび学会本部幹部会にも出席し、「池田先生につき従って信心を」と指導した。正本堂供養にも大口で参加し、「億単位の供養者、5人のうちの1人」といわれたのである。塚本を顧問にすえることによって、池田は塚本の財力を最大限に利用するとともに、彼をパイプ役として、前号で詳述した池田の経済活動、財界進出への布石作りを行なったといえるだろう。
しかしこの顧問制度は、いつのまにか廃止されることになる。一説では、昭和44年から45年にかけて発生した「言論問題」のさなか、後述する塚本の“死の商人”性が噂され、これを恐れて池田は、顧問制度を廃止するという形で塚本との縁を切ったという。このために池田と塚本の関係は、感情的にもスムーズにいってはいないといわれるわけだが、しかし仮にそうであっても、塚本が現在でも学会壮年部の有力な信者であり、強烈な反共主義の持ち主であることに変わりはなかった。
共・創和解について、池田が塚本に頭を下げたという話は、そのまま池田が壮年部総裁の反共意識に屈服せざるを得なかった、両者の力関係を如実に示す説話になっている。…
このように塚本素山が創価学会員として政財界に相当な影響力を持っていた人物だということが分かりましたが、「政商」「死の商人」といったきな臭い言葉が出てきましたので、単なる財界人ではない塚本素山の裏の顔の方も見ていきましょう。
児玉誉士夫と学会のつながり
だが、塚本の名前に触れることは、従来一種のタブーとされてきた。何か不気味なカと雰囲気を彼は持っていたらしい。学会会員には多くの財界人がいる。戸田順之助・戸田建設社長、本間嘉平・大成建設会長、堀田光雄・富士急行社長、中川一郎・東洋キャリア会長その他。これらの財界人会員については、多くの学会系資料が触れている。しかし学会顧問の地位にまで就いたにもかかわらず、塚本総業社長・塚本素山については、その名前すら見あたらないのだ。
彼の略歴については前述した。しかし一復員少佐が、いかにして財界の顔役にまでのしあがれたのか、謎は多い。共産党情報通にいわせれば、彼は“死の商人”なのだという。「彼は小佐野賢治、児玉らと並ぶ日本の黒幕の一人です。現在、赤旗に連載中の『日本の黒幕、小佐野賢治』が終ったら、次は素山がやられる番になっています」という。
さらに、共産党の対極にいる、公安関係者らも「彼は朝鮮戦争、ベトナム戦争によって財をなした。米軍から、型が古くなっただけでまだ新品同様に使える武器、車両などの軍需物資を、スクラップとして払い下げを受け、それを分解して韓国、南ベトナムなどに輸出した。もちろん現地で組みたてられ、新品同様の武器になるわけだ。彼は韓国ロビ一ストの中でも切れ者です」と語る。
これらの話の具体的な内容、活動の全容は、戦後経済裏面史として、やがて明らかにされることもあるだろう。しかしここで重要なことは、こうした活動の過程で塚本が日本の政・財界、そして社会の深層に流れるある特殊な勢力、力と提携していったことだった。今回のロッキード事件で、図らずもその一端が暴露された、児玉誉士夫との親交もそのひとつである。塚本の持っていた不気味な力、タブー性はそうした特殊な人脈によっていた。
児玉の政・財界、右翼、暴カ団との相関図は、ロッキード事件の解明過程で多く明らかにされているし、紙面の都合もあって割愛する。しかし塚本が日本の闇の力の近くにおり、塚本を通して児玉が学会にまでつながっていたのは、隠れもない事実だった。このことが重要なのである。池田は単に財界人としての塚本を利用したのではなかった。日本の黒幕、顔役として塚本を利用し、社会の裏面にまでとどくパイプ作りの布石としたのである。
現在では学会は、児玉と直接に深い触接をとりあう関係にまで入っている。ロッキード事件が発生する以前、昨年(昭和50年)中に、北条浩理事長が児玉邸に出入りしていたことは周知の事実である。さらに児玉が49年9月、脳血栓で倒れて以来自宅療養している間に、児玉邸の居間にあった「創価学会」の名前入りの、見舞い果物籠を目撃している人物も実在する。
塚本素山は、単なる学会壮年部信者の象徴ではなかった。学会信者の持つ反共意識の、単なる具人化でもなかった。10年協定をめぐって、何故塚本の動きがとりざたされるのか。何故学会は児玉とつながらなければならなかったか。あるいは後述するように、児玉を通じて元日大会頭・古田重二良(故人)に、また岸信介に何故つながらなければならなかったのか。そこには学会の性格をめぐる、さらに深い、重要な意味が隠されていたのである。
学会の“反共の砦”化構想
まず結論を先にいおう。児玉、塚本ら日本の右翼指導者たちにとって、創価学会は日本民族の意識の、反共の砦のひとつとして位置づけられていたのである。
児玉は日蓮宗大本山・池上本門寺の檀家総代の一人に列している。児玉の他に永田雅一・元大映社長、萩原吉太郎・北炭会長らも顔をそろえているが、日蓮宗は創価学会(日蓮正宗{しょうしゅう})とは教義的には対立する。たとえば日蓮の意義づけについても、日蓮宗が「日蓮大菩薩」と称して「菩薩」の位置づけを行なっているのに対して、創価学会は「日蓮大聖人」とよび、日蓮を最高位の「末法の本仏」とみるのである。
児玉はその日蓮宗の檀家総代であり、塚本は学会の願問だった。宗教的信条において異るこの2人は、にもかかわらず手を結んだ。宗教的次元で提携したのではなく、反共という思想的次元において提携したのである。つまり日蓮宗、日蓮正宗を含む、日本の全宗教団を動員して、反共の砦として育成することを考えたのだった。
国際勝共連合の黒幕の一人といわれた人物に、元日大会頭・古田重二良(故人)がいる。言論妨害事件のおり、古田は必死になって学会防衛にあたった。「古書を焼く」という名目のもとに、警察、消防署の許可をとり、学会批判書のすべてを集めて、日大グランドで焚書まで行なった。彼は右翼指導者として、学会をつぶしたくなかったのである。
事実、彼は社団法人・宗教センター(現在は崩壊している)を設立し、執拗に反共ラインの建設を試みた。仏教系、神道系を問わず、日本国中のすべての教団、神社、仏閣を大同団結させ「共産主義との対決」にかりたてることをもくろんだのである。この構想は学会と、学会によって邪宗攻撃された他教団の間の握手がなされぬままに挫折するが、この古田の背後には児玉がいた。児玉と古田はじっ懇の間柄で、昭44年のはじめに発生した、日大脱税事件のもみ消しに、児玉が暗躍したと現在でも噂されているのもその例だ。
つまり創価学会が団体の特性としてもつ「反共性、反日共性」は、単に学会員総体の中にある、意識の集約によってのみ生まれたものではなかったのだ。一宗教団体としての傾向、範囲を越えて、さらに広い視野から日本の政治、経済、社会を貫徹する宗教以外の価値観、つまり政治的思想によって、あらかじめ以前から学会に与えられた特性でもあったのである。この“反共の砦”としての性格作りに二代会長戸田城聖もペテン師として参加した。話は終戦直後に遡る。
昭和21年当時、戸田は獄死した初代会長牧口常三郎に代って学会の指揮をとっていた。彼はこの頃、日本婦人新聞の社長、松崎弥造なる人物と組んで、GHQ・マ司令部から新聞用紙の割当を受ける。当時の新聞雑誌の用紙割当は、政府の用紙割当委員会が民間の窓口となり、GHQが最終的に決定することになっていた。さらにGHQ内部では、G2(参謀部第二部・作戦部)直属のCIC(軍諜報部隊)がこの種の情報担当を行なっていた。
当時G2はGHQ内部でGS(総司令部民政局)と苛烈な闘争を展開中で、日本を強固な反共国家に育成しようと画策していた。こうした背景のもとで、CICに対して戸田は自ら反共姿勢を明らかにし、日本帰人新聞を舞台に「反共活動を行なう」という約束のもとに、多量の用紙割当の獲得に成功した。しかし戸田はこれを私し、ヤミに流してボロ儲けをするという重大事件を引き起こしたのである。もっとも、戸田が一貫して反共思想の持ち主であったのは事実であり、特に岸信介に接近を図る。「社会党と共産党をおさえていける人は、岸先生しかいない」と語ったという戸田の言葉は、そのまま学会の性格をも如実に物語っている。
つまり塚本素山という名前は、学会内壮年部の会員の象徴であると同時に、学会外の、しかも社会の深層部分に流れる、右翼指導部の学会に対する圧カの象徴でもあったのだ。
戸田城聖が「創価教育学会」の名を「創価学会」に改称したのが昭和21年とされていますので、ちょうどGHQ司令部から新聞用紙の割り当てを受けた時期と重なり、「創価学会」が単なる宗教団体ではないことが分かりますね。
その後、創価学会は急速に勢力を拡大していくことになりますが、創価学会が様々な分野に浸透していくためのキーパーソンが、財界人や裏社会ともつながっていた塚本素山という人物です。
この塚本素山の人脈の広さと闇の部分は、以下の動画をご覧いただくと分かりやすいかと思います。
安保闘争の影響で岸信介内閣退陣後に首相となった池田勇人は大蔵官僚出身の政治家として財界人と太いパイプを持っていたと言われていますが、こちらの映像を見ると池田勇人も塚本素山と近い関係にあったことが分かりますね。
こちらの動画を見ると塚本素山が皇族や各界の著名人とつながっていたことが分かりますが、岸信介の後継者となった福田赳夫も塚本素山の葬儀の際に弔辞を読んでいるようですね。
これらの動画によると、塚本素山は岸信介・安倍晋三と深い関係にあることが分かりますね。
このように皇族を筆頭に政財界の大物と太いパイプを持ち、池田大作を三代目の会長に就任させるほどの力を持った塚本素山でしたが、創価学会は顧問制度を廃止し、池田大作が名実ともに創価学会のトップに立つことになります。
【学会】顧問制を廃止し、塚本素山を組織から切る。
塚本はこのあとも日蓮正宗の信徒として、日達猊下とさしで面談するなどしている。『社長会記録』には、塚本が学会の会計について問い合わせてきたとの池田の言葉がある。◇
『塚本氏は、戦時中、支那(現在の中国)東部方面軍の副官であった。笹川(良一)氏は、周知のように児玉誉士夫氏と並んで物資調達の民間機関を運営していた。児玉氏は主に上海地方で海軍の下請けをしており、笹川氏は陸軍の下請けをしながら中国大陸に進出していった。当然のごとく、塚本副官と笹川民間機関は仕事のうえでも″同志的″結合があった。』
(丸山実『花形記者は転んだ』P33)
『創価学会はなぜ塚本氏を切らなければならなかったのか。それは中国を射程に入れたからだ。毛沢東率いる当時の中国にとって宗教は不要。では何が目的か。日中国交回復の橋わたしであった。それにもう一つの目的は創価学会が抱えた黒幕の大半が「アメリカ・ロビー」であったこと。彼らは、確かに国内における支配者層への目配りは効いたが、世界へ進出しようとする創価学会にとってかえって足かせになったとみえる。』
(同P45)
顧問制度を廃止し、塚本素山から距離を置くようになったとされる1967年(昭和42年)に池田大作が出会った人物の一人が、鹿島平和財団から贈られた第1回「鹿島平和賞」を受賞するために来日したリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーになります。
池田大作とカレルギーを引き合わせた塚本素山
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー
カレルギーについてはRAPTブログのこちらの記事をご覧ください。
◯NWO(世界統一政府)の提唱者がフリーメーソンであり、日本人であるという確たる証拠。
池田大作とカレルギーの交流については、Wikipediaに以下のように記載されています。
1967年10月30日には、日本の鹿島平和財団から第1回「鹿島平和賞」を贈られた。その授賞式や報道関係の取材に協力するため、鹿島平和財団、NHK、友愛青年同志会の三者の招待で10月26日から11月8日にかけて夫婦で訪日した(リヒャルトの姪バルバラも同行)。天皇家への謁見と勲章の受勲、各界の指導者と会見、数回の講演等も行った。71年ぶりに日本へ戻った彼の動向はテレビ、ラジオ、新聞、雑誌などにより日本国民に伝えられた。翌1968年、鹿島守之助による日本語訳の著書『美の国 日本への帰郷』が鹿島研究所出版会で刊行された。この頃、鳩山一郎の長男威一郎は大蔵省主計局に勤務し、威一郎の長男由紀夫は東京大学を卒業した(1969年)。
2回目の訪日は1970年10月6日から10月28日にかけてであった。この訪日は創価学会の全面的な支援による招待となり、創価学園東京キャンパス、建設中の創価大学などを訪問したのち、創価学会の池田大作会長(当時、後に名誉会長)とも会見した。
~中略~
クーデンホーフ=カレルギーの晩年、世界は東西冷戦下にあった。クーデンホーフ=カレルギーは世界平和の実現のため、仏教に、創価学会に希望を抱き、1967年の訪日(帰郷)では創価学会の池田大作会長との会見を強く求めた。鹿島、NHK、友愛青年同志会の関係者一同は創価学会への接触には反対していたが、クーデンホーフ=カレルギーはそれには構うことなく、1967年10月30日に会談を実現した。クーデンホーフ=カレルギーは自分より30歳以上若い池田会長を好人物・知性ある人物として高く評価した。クーデンホーフ=カレルギーは池田会長が日本国外の知識人・要人と対談した初めての相手となった。クーデンホーフ=カレルギー著『美の国 日本への帰郷』(1968年、鹿島研究所出版会)には池田に関する言及もある。
会見は1970年の東京都においても行われ、延べ十数時間の対談となり、クーデンホーフ=カレルギーが語った日本が成すべき世界平和実現・新たな太平洋文明の発展・平和思想としての仏教の発信、それらの考えは池田に印象を残した。
1971年、『産経新聞』にクーデンホーフ=カレルギーと池田会長の対談が連載され、対話集『文明・西と東』として1972年に刊行されている。
創価学会系の出版社潮出版社は1971年1月にR・クーデンホーフ=カレルギー講演集『大陸日本』を刊行した。『大陸日本』には「日本は西欧の正式な従兄(いとこ)」という発言がある。2002年から日本に在住している甥っ子のミヒャエル画伯によると、リヒャルト伯父は「最高のヨーロッピアンは日本人だ」と言っていた。ミヒャエルは池田会長が設立した東京富士美術館と交流がある。
潮出版社はまた1971年6月に北野英明著の漫画『カレルギー伯』(全1巻)を刊行した。この漫画はリヒャルトの青年期までの伝記である。
カレルギーと会見した翌年の1968年(昭和43年)に池田大作は「日中国交正常化提言」を発表することになります。
カレルギーは池田大作が初めて会った日本国外の知識人・要人だったということですが、ヨーロッパの貴族でありフリーメイソンでもあるカレルギーと出会ったことは、「創価王国」を作って世界を支配することを目論んでいた池田大作に大変な自信を与えたのでしょう。
池田大作の発言も大胆不敵なものへと変わっていきます。
参考リンク:池田大作の正体
カレルギーと会見する前の発言
「広宣流布(※池田のいう広宣流布とは、国民のほとんどが学会員となる状態)の時には、参議院議員、衆議院議員もいてさ、皆な財布の中には少なくとも十万や二十万入れて、洋服も月賦じゃないの着てさ、ひとつ国会議事堂やプリンスホテルや帝国ホテルで会おうじゃないか。要所要所を全部ね、学会員で占めなかったら広宣流布できゃしませんよ」
(『聖教』昭和32年9月6日)
カレルギーとの会見後の発言
「目立たないように枝を伸ばし、産業界に網の目を張りめぐらして、最後に総合商社を作って決戦だ。(中略)中曽根康弘は心配ない、こちらの小僧だ。総理大臣になりたいと云っていたので、よしよしと云っておいた。ケネディきどりだ、坊やだ」
(第6回社長会・昭和42年11月25日)
「警察だって、動かしているのは竹入・井上だよ」
(第13回社長会・昭和43年7月8日)
「私が教わったのは帝王学だ。私は最高権力者になる。そのときには創価学会を解散してもいい」
(『現代』昭和45年7月号)
このような経緯がある中で、実際に池田大作が「日中国交正常化」を提唱し始めて以降、歴代の中国トップと会談させてもらえるほどの扱いを受けるようになります
中国との関係
これまで10度訪中し、北京、西安、鄭州、上海、杭州、広州などを訪れている。また、毛沢東、周恩来、鄧小平、江沢民、胡錦濤、温家宝といった政府指導者をはじめとする中国各界の要人と会見するなど、親密な関係にある。
中国首脳陣との会談
1968年9月8日 「日中国交正常化提言」を発表。
1974年5月30日 中国の招聘により初訪中。 李先念副総理と会見。
1974年12月5日 2度目の訪中。鄧小平副総理と会見。その直後、病気療養中の周恩来総理の強い意志により、周恩来と池田との会見が行われる。
2007年4月12日 温家宝首相と会談。
2008年5月8日 胡錦濤国家主席と会談。
他国の一新興宗教団体の会長が中国の歴代トップと度々会談の場を持つということは異例のことですが、その発端となる池田大作とカレルギーの会見を実現させたのが、他でもない塚本素山だということです。
『〈カレルギー伯を自己宣伝に利用〉
最初、クーデンホーフカレルギー伯爵と池田大作を引き合わせたのは、塚本素山氏である。汎ヨーロッパ主義者として高名だった同氏は、日本女性を妻にした知日派の人でもあった。
池田大作は、カレルギー伯との対談を、有名人利用の第一号とした。昭和40年初めの教学試験の問題に「クーデンホフ・カレルギー伯について述べよ」という趣旨の問題が出された程である。
その後、出版社の企画で、創価学会の費用負担で再度招待し、池田大作は抜け目なく売名に利用した。』
(山崎正友『池田大作日本経済乗っ取りの野望(二)』P101)
先に引用した資料では顧問制度を廃止しして創価学会から塚本素山を切ったかのような説明がされていましたが、池田大作とカレルギーを引き合わせたのが塚本素山だと分かると、これをそのまま受け入れてしまって良いものかと考えてしまいます。
「政界のドン」永野重雄と塚本素山
先に貼付した二つ目の動画をご覧いただくと、塚本素山は「財界のドン」と呼ばれ、福田赳夫内閣誕生の立役者とも言われる「永野重雄」と家族ぐるみの付き合いだったと言われています。
『財界のドン』:永野重雄
Wikipediaの永野重雄のページを見ると、永野重雄は自民党初代総裁の鳩山一郎と囲碁仲間だったということです。
『フリーメイソン』:鳩山一郎
鳩山一郎といえば先にリンクを貼ったRAPTブログの記事でも触れられているように、カレルギーの著書『Totaler Staat Totaler Mensch』を邦訳し、カレルギーの思想に感銘を受けて、フリーメイソンリーに入会したほどの人物でした。
この一連の人間関係をつなげてみると、以下のようになるでしょうか。
カレルギー ⇒ 鳩山一郎 ⇒ 永野重雄 ⇒ 塚本素山 ⇒ 池田大作
そういえば、戸田城聖と交友関係があった政治家の一人に鳩山一郎の名前もありましたね。
また、Wikipediaなどの一般的な情報では伏せられている永野重雄の人脈について調査してみると、興味深い情報がありましたので引用しておきます。
日本に訪れた昭和初期の大不況で、生活に困った日本人の多くは中国大陸に渡った。それは日本のヤクザ、暴力団も同じであった。
生活に困った日本人は、日清戦争以後、半ば日本と世界各国の植民地のようになった中国に渡り、莫大な利益を求めて中国でビジネスを行った。
その中で、三井、三菱といった大財閥に資金を出資させた右翼の大物、里見甫(はじめ)の昭和通商という企業は、目立たないが最大手の企業であった。里見がそこで扱うのは麻薬、アヘンであった。アヘンを扱う暴力団のフロント企業に、三井、三菱といった大財閥が出資していた事になる。
中国大陸のアヘン市場は、アヘン戦争以降イラク出身のサスーン財閥の独占市場であったが、英国軍部と結び付いたサスーンは、中国大陸とアヘンの供給地東南アジアにおいて、フランス軍が勢力を伸ばし、さらに日本軍が中国大陸において大規模な侵略を始めると、少しずつその勢力範囲を狭めて行った。
中国国民党を支持していたサスーンは、中国共産党とは折り合いが悪く、最終的に共産党が政権を取ると、サスーンは中国のアヘン市場を失う事になる。
この世代交代につけ込んだのが里見であった。里見は三井、三菱を背後にした資金力と飛び抜けた商才で、中国の地下経済を支配する青パン、紅パンと呼ばれる秘密結社にまで幅広く人脈を広げ、一時期は英国を始めとしたアングロサクソンを排除し、中国のアヘン市場を支配下に置いた。
その背後には、サスーンを中国アヘン市場から追い出し、次の世代の中国アヘン市場を狙うアイゼンベルグ社(後にイスラエル建国の中心となる)と里見との提携があった。米国全土の麻薬組織、マフィアの「統一」を果たした「殺人株式会社」の軍事部門アイゼンベルグと、日本の大物右翼、三井、三菱財閥が連携していた。この日米マフィア連合が英国麻薬業者の追い出しを行っていた。麻薬争奪戦争であった。
アイゼンベルグは第二次世界大戦中、戦後におけるイスラエルの建国を目指して日本に「研修」に来ていた。後進国の日本がどのようにして産業を育成したかは、これからイスラエルを建国しようとするアイゼンベルグにとって、一つのモデルとなる。
日本政府が国営で八幡製鉄所を作り、経営が軌道に乗り、一定の時期が来ると民間に企業を「払い下げ」、民間企業、新日鉄としたその手法はアイゼンベルグによって十分に研究、吸収され、戦後イスラエルの産業復興の手法として、アイゼンベルグによって生かされる。
米国最大のマフィア組織であるアイゼンベルグと、日本の大物右翼、ヤクザである里見甫はここで出会う。アイゼンベルグの経営者ショール・アイゼンベルグは、1940年に新日鉄の会長であった永野重雄の娘と結婚している。そこから日本の産業界のイスラエル人脈は延々と続く事になる。現在の麻生外務大臣の経営する、麻生セメントの親会社ラファルジュ(フランスのセメント会社)のさらに親会社がアイゼンベルグである。
この昭和通商で、里見甫の部下として「金儲け」のため麻薬売買を担った人物達の中に、右翼の大物、児玉誉士夫、そして岸信介、佐藤栄作、池田勇人がいた。
これは、戦後の日本で自民党の総理大臣になる面々が「偶然」にも昭和通商で麻薬売買を行っていたという事ではなく、中国のアヘン売買で「荒稼ぎ」した里見甫とイスラエル、アイゼンベルグの資金が、戦後の日本の権力者を生み出して来た事を意味する。
日本が第2次世界大戦に突入して行く契機となったのが、東条英機の大政翼賛会の結成であった。野党までが戦争賛成なる「挙国一致」体制の成立で、野党による与党のチェック、戦争反対の声が完全に抹殺されてしまった。
東条英機はこの大政翼賛会の結成を、野党議員の「金による」買収で成し遂げた。その買収資金の提供を求め、東条が「泣き付いた」相手が右翼の大物、里見甫であった。里見とアイゼンベルグの麻薬資金が日本の戦争体制を「成立」させていた。
里見とイスラエル、アイゼンベルグの麻薬資金は、戦中戦後の自民党首相の「キングメーカー」となる。
この永野重雄の長男は、大本教の出口王仁三郎の黒幕でもあり、「裏天皇」とも呼ばれる「堀川辰吉郎」の娘婿だということです。
永野重雄と「裏天皇」堀川辰吉郎
堀川辰吉郎
◯天皇と裏天皇と八咫烏。彼らこそが日本と世界を操る最大の秘密組織なのか。
その堀川辰吉郎がどのような人物であり、また永野重雄とどのような関係であったかが分かる資料を引用します。
日露戦争により日本の国力を目の当たりに観た愛新覚羅氏は、満洲族の将来を賭けて日本に接近を図った。漢族の自立が眼前に迫る中、その後の満洲政策を諮るために、西太后は忠臣袁世凱を代理人として折衝に当たらせたが、明治皇室も政体桂太郎内閣も敢えて之に応対せず、愛新覚羅氏との折衝に当たったのは、孝明帝の血統を継ぐ堀川辰吉郎を奉じる京都皇統勢力であった。明治元年、維新政府は徳川氏の江戸城を東京城と改称し、新たな皇居と定めて新帝明治天皇が住することとなったが、先帝孝明天皇の血を継ぐ一部皇統は秘かに京都に残り、公卿・社寺・公武合体派など幕末以来の諸勢力の輔翼を受け、東京皇室と維新政体が直接関わることが難しい特殊な国事に当たることとなったのである。
京都に残った皇統の中核は、俗姓堀川を称する辰吉郎で、その後見人に杉山茂丸(一八六四~一九三五)が選ばれて以来、杉山の拠る玄洋社が辰吉郎の支援勢力として台頭した。その背景は、玄洋社の母胎黒田藩が幕末に薩摩島津氏から藩主を迎えて血統を変じ、島津氏の別派と化していたからである。茂丸は龍造寺の男系杉山姓を称したが、実は島津重豪の九男で黒田藩主となった黒田長溥(一八一一~一八八七)の実子で、島津重豪の実孫でもあるから、島津斉彬・久光兄弟の父斉興とは従兄弟の関係にあった。長溥が実子茂丸を龍造寺系杉山家に入れ、藤堂家から長知を迎えて黒田家を継がせた深謀遠慮は、無論教科書歴史の所説とは全く異なるが、これを理解せざれば日本近代史の真相を得られない。
維新後、在野志士を志した黒田藩士が結成した政治結社玄洋社は頭山満・平岡浩太郎を社長に仰いだが、隠れた社主が茂丸であったことは謂うまでもない。辰吉郎は杉山茂丸を傅役として福岡で育てられた後、上京して学習院に通う。皇族・華族の子弟教育を専らとして、平民の入学を初等科に限った当時の学習院に、辰吉郎が入学したことは、その貴種たる一証である。
長じた辰吉郎が、わが国の皇室外交と国際金融政策を秘かに担う次第こそ、明治史の秘中の秘で、これを知る者は今や杉山家の周辺にさえほとんどいないが、その観点から史書を渉猟すると、痕跡は随所に散見される。一例は、明治三十二年日本に亡命してきた清国人革命家孫文を支援するため、辰吉郎が孫文の秘書となり行動を共にした事である。孫文が、常に身辺に伴う辰吉郎の正体を日本皇子と明かすことで、清人間における信用を高め得たのは、素より玄洋社の計らいであった。
要するに京都皇統は、清朝倒壊後の満洲の宗主権保全を図る愛新覺羅氏(西太后没後、その中心は、光緒帝の実弟で宣統帝溥儀の実父の醇親王載灃)と、満洲族支配からの漢族独立を図る革命家孫文の双方を支援したのであるが、両者の目的は同じく満漢分離の実現にあり、両立は本来可能であった。漢族の自立革命によって成立した新国家中華民国は、孫文の掲げた民族自立主義を実際に貫徹しなかった。即ち、中華民国は漢族の純粋民族国家でなく、漢族主体の多民族国家(中華思想に拠る合衆国)になったが、これは当時の国際政治の現実がもたらしたもので、あくまでも結果である。
ともかく愛新覺羅氏と京都皇統の密約は具体化し、杉山茂丸らの苦心の結果、辰吉郎は明治四十三(一九一〇)年紫禁城に入り、内廷の小院に住んだ。その間、辰吉郎が喫緊の要地たる満洲をしばしば探訪したのは当然で、情報誌『月刊みち』紙上に、安西正鷹が「辰吉郎は満洲の覇者張作霖と昵懇になり、その長子学良と義兄弟の盟を結んだ」と述べているが、否認すべくもない。辰吉郎は、国民党ナンバー2として終始蒋介石を支えた張群の長子に娘の一人を嫁がせたという(中矢伸一『日本を動かした大霊脈』)が、孫文の死去後も国民党との関係が途絶えなかった一証であろう。また、他の娘は富士製鉄(現社長新日鉄)の創業者で日本財界の重鎮となった永野重雄の子息辰雄の室に迎えられた。前首相鳩山由紀夫の父鳩山威一郎(大蔵事務次官・外相)が辰吉郎に親炙した事も、辰吉郎の出自を黙示する。
それもさることながら、特筆すべきは、辰吉郎が世界各国で、ことに王室内部にその子供を残した秘事であろう。欧州各王室は婚姻政策に拠って緊密に結びついているが、国體を慮って王室連合加入を躊躇う東京皇室に替わって、辰吉郎が裏面で実践したわけである。これぞ皇室外交の真髄と謂うべきである。
明治維新は、西南雄藩の下級藩士を中心とする志士たちが、日本社会の近代化国際化を目指し、政体の変改を希求して推進したものである。薩長土肥の何れの藩においても、維新志士たちの拠ったイデオロギーは「楠公精神」で、楠木正成が後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を倒した「建武中興」に政体変改行動の模範を求めて、その再現を図ったが、彼らの目的を政体変改だけに限るのは、いかにも表層的理解である。
楠木正成の思想は、南朝皇統を正統とする名分論にあったから、楠公精神を標榜した志士が目指したのは、江戸幕府打倒と王政復古による単なる政体変改でなく、南朝(大覚寺統)の復活と北朝皇統との交替にあった。皇統の交替は「国體」の変改を決して意味しない。皇位相続の問題は、国體観念に影響しないのである。そもそも日本の国體は、日本列島に人間が住み着き社会を成して以来、徐々に醸成され連綿と受け継がれてきた観念で、国家社会の在り方の根本を規定する。有史以来「政体」には幾多の変動があったが、国體に変改はなかった。つまり国體の観念は「日本」と一体不可分で、国體が厳として存する限り日本は存続し、日本が在る限り国體がそれを支えているのである。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、天皇親政の「建武新政」を建てたが、この新政体は歴史の展の法則たる封建制の進行には逆らえず、間もなく崩壊して足利氏が室町幕府を開く。開府に当たり皇室の信認を必要としたのは、国體の下で当然であるが、幕府将軍に就いた足利氏は、両統迭立の先約に背いて、持明院統(北朝)のみを皇室とした。これに対して大覚寺統は、吉野など天嶮に拠って南朝皇室を立て北朝と対立したので、茲に両統が並立する事態を招く。鎌倉時代に皇室の内紛から生じた両統の対立は、幕府の仲介により迭立(たすき掛け相続)を合意したが、貫徹できないために此処に至ったので、固より変則事態ではあるが、国體自体を損壊するものではない。
名分論に立って室町時代以来の北朝専立を改め、南朝の復活を目指す動きは、江戸幕藩体制にも潜在していた。元和元年、大坂夏の陣により徳川氏が覇権を確立するや、徳川家康は「元和元年八月應勅」と銘打った『公武法制』を定めた(『南紀徳川史』)。
其の第十二条に、「尾州大納言義直と紀州大納言頼宣両人は将軍と並んで三家と定める。これは将軍が万一傍若無人の振舞を致し国民が迷惑する時は、右の両家から代りが出て天下政道を治めるためである。このため両家は、諸賦役を免除されて官職従三位を賜り、尾州は六十二歳、紀州は六十六歳で大納言を賜り、国中の諸侯は将軍に準じて尊敬致すべきこと」と定めている。つまり、徳川御三家とは本来、幕府将軍家及び将軍職の直接継承資格を有する尾張家・紀州家の三家を指すもので、水戸家は入らない。
その理由を第14条に、「水戸宰相頼房は副将軍を賜るが、その意味は、将軍が国政を誤った時には老中・役人をして評定せしめ、水戸家の指図を以て尾州・紀州の両家から適任者を選び、将軍相続を奏聞することにある。万一両家に其の任に応ずる人が居ない時は、いずれの諸侯からでも天下を鎮めるべき器量を選んで奏聞すべきである。ただし奏聞者は水戸家に限るものとする」と規定しているが、之により恰も「神聖ローマ帝国における選帝侯」の立場に就いた水戸家では、二代藩主光圀以降、将来有り得べき将軍選定作業に備うべく、ひたすら歴史研究に勤しむこととなった。蓋し、水戸藩が彰考館の開設と「大日本史」編纂を始めた所以である。
『南紀徳川史』の編者堀内信が、「『公武法制』の原本はある秘本より抄出したものだが誤字が多い。秘密だったために転々筆写して来たものと思われる」と謂う通りで、『公武法制』は江戸幕府の極秘法規であった。政体たる幕府将軍職の変更手続きを明定するその内容は、、時の国家憲法そのものであるが、憲法史上これを論じた学者を見ないのは、極秘に扱われてきたために、明治以後今日まで、憲法学者がその存在を知らないからであろう。
ともかく、その内容を漏れ聞いた雄藩が、将来有り得べき幕府将軍の選定に備え、秘かに対応策を巡らせたのは当然である。対応策の主柱は、南朝皇胤を秘密裏に確保し保護することにあった。蓋し、幕府将軍職に就くのに天子の信認が不可欠なのは、国體により自明であって、そのために雄藩は自前の天子候補の確保を図ったのである。
その天子候補が悉く南朝皇胤であったのは、選帝侯たる水戸家が大義名分論に立ち、南朝正統説を宣揚したからである。水戸徳川家が会津藩に匿わしめた熊沢氏は後亀山系信雅王の後裔で、熊沢蕃山の外祖父もその系統であった。彦根井伊氏が擁した三浦氏は宗良親王系、防長毛利氏が保護した地家氏(大室氏)は名和氏に護良親王の後裔が入ったものと推量される。仙台伊達氏が擁した小野寺氏は長慶天皇系である。また紀州徳川家が、護良親王が調月村井口左近家に遺した子孫縁類を探索して召抱え、異例の厚遇をしたのも同じ意図であろう。
維新を推進した薩長土肥の四藩では、長州藩が元治元年に楠公祭を挙行し、薩摩藩も同年楠公社の創建に掛かり西郷隆盛らが奔走した。肥前藩では副島種臣の実兄枝西神陽が楠公義祭同盟を始め、土佐藩では武市瑞山が土佐勤王党を興して楠公精神を追慕した。維新の大業漸く成り、明治政府は国家を挙げて湊川神社を祀り楠木正成を顕彰したが、南朝皇統復活についてはどのようになされたか。これに関しては巷間数多の著書が出ており、インターネットにおいても盛んに論じられている。教科書史学とは氷炭相容れざる内容であるが、要約すれば、護良親王五代孫を始祖とする地家作蔵の子の大室寅之祐が、長州藩の計らいで孝明帝皇太子祐宮睦仁親王と入れ替わったと謂うものである。細部は正鵠を得ないにしても、最表層より数層下のレヴェルの歴史事象が顕れたわけで、当否の判断は諸賢に俟つこととする。
明治四十三年の教師用教科書の改訂に関して浮上した南北朝正閏問題が、明治末期の朝野を揺るがしたのは、翌四十四年の大逆事件裁判で、幸徳秋水被告が南朝正統論と明治皇室の関係に言及したためである。尤も、問題の根底には世俗的勢力争い、すなわち両皇統の配下の末端における角逐があったものと考えられる。とかく分業体制は末端における競合を避けられないから、東京皇室と京都皇統の二元制の下で、実行勢力の間に軋轢が生じるのはやむを得ない。
大正三年、中山忠英が大日本皇道立教会を創立して初代会長に就任した。忠英は、天誅組を首謀したが、亡命先の長州で十九歳で暗殺された中山忠光の遺児である。同会は、南朝を正統として、その皇道に沿う教育を行う主旨を掲げたが、真の目的は南北朝の融和で、つまり東京皇室と京都皇統の末端に於ける親和を志すものであった。大隈重信初め大物華族が歴代会頭に任じたが、創立者の中山忠英が急死したために、その業績は不発に終わり、昭和五年十一月十八日を以て創価教育学会に変身する。即ち後の創価学会である。
明治三十七年の日露戦争に際しては、玄洋社員が企画した満洲義軍を称する特別任務隊が、大本営参謀福島安正少将の承認を得て、ロシア軍の後方を撹乱した。満洲義軍は、軍事探偵と特別任務(特務)に止まらず、清人有志との提携をも図り、大本営幕僚花谷仲之助少佐(陸士旧制六期・三十八年四月中佐)の指揮の下に活躍した。軍人・通訳五十五名に加えて、玄洋社員十四名が参加した満洲義軍は、明治三十七年六月には遼東半島安東県に入り、現地馬賊に呼びかけて四個隊を編成したが、その数は最盛時には五千人を数えたという。
当時の現地馬賊の頭目には日本人が多く、「江崙波」こと辺見勇彦、「天鬼」薄益三、「鉄甲」根本豪などの名が巷間の馬賊書を賑わすが、彼等は満洲軍総司令部附橋口勇馬少佐(陸士旧制六期・三十八年三月中佐、のち少将)の指揮下に入り、配下の満人たちを率いて活躍した。
満洲一円の緑林(いわゆる馬賊)に日本人が多かったのは、満洲を対ロシアの地政学的最重要地とする国家的見地から、玄洋社が国事のために送り込んでいたのだが、同じく緑林でも、王文泰について知る人は稀である。王文泰は、後に大本教の開祖となる出口ナヲの次男として明治五年に生れた本名出口清吉である。正に丹波大江山衆であるが、実は公卿嵯峨家の出自と謂われる。嵯峨家は、当主実愛が王政復古に尽力した上、嫡子公勝の室に中山忠光の遺児ナカ(南加)を迎えており、伏線が感じられるが、仔細は窺う由もない。
日清戦争後の台湾島平定に際し近衛上等兵として出征した清吉は、凱旋の帰途輸送船内で蒸発するが戦病死として扱われたので、母出口ナヲに弔慰金が支給された。五年後の義和団事変で、王文泰と称する日本人軍事探偵が顕著なる功績を挙げたことが「京都日出新聞」で報じられたが、それが出口清吉であった。その後満洲で緑林に投じた清吉は、三歳下の張作霖と出会い、頭目仲間として行動を共にする。清吉の活動が辺見勇彦らのように詳しく伝わらない理由は、辺見らと異なり日本陸軍に所属しなかったからであろう。清吉は、張作霖と歩調を合わせて満洲義軍に加わらず、日露開戦時には旗幟を鮮明にしなかったが、これにも理由があるものと思われる。
堀川辰吉郎の出自については諸説あり、その人物像についてもWikipediaでは詐欺師として扱われています。
睦仁親王とすり替わった大室寅之助が明治天皇に成りすまして以来、現代の皇族にもはっきりと別人だと分かるほどの替え玉が存在するなど、明治維新から現在に至るまで国民を騙し続けているように、天皇家自体が詐欺集団だと言えるでしょう。
そのような状況において、「天皇家」という権威を利用するイルミナティは、その権威を守るために真実の情報を隠蔽したり、間違った情報を流して国民をミスリードしようとします。
「裏天皇」なる者が存在することが国民にばれたとすれば、それこそイルミナティにとっては一大事ですから、Wikipediaの堀川辰吉郎に関する情報も国民をミスリードするためのものだと考えられます。
堀川辰吉郎がただの詐欺師であれば、娘を「財界のドン」と呼ばれた永野重雄の息子に嫁がせることなどできないでしょう。
また、永野重雄ほどの大物財界人のWikipediaに兄弟以外の家族構成に関する記述が一切ないことも、これらのことはイルミナティにとって国民に伏せておくべき事柄だということでしょう。
ところが、堀川辰吉郎のWikipediaには「四女は、新日本製鉄会長永野重雄の長男永野辰雄(大同鋼板社長)と結婚」との記述があります。
私自身が間違った情報に騙され、結果としてあなたをミスリードしてしまうことがないよう、念のため、永野重雄の家族構成が分かる情報を引用して確認してみます。
◆永野重雄
1900年 誕生
1924年 浅野物産入社
1925年 富士製鋼入社
1933年 富士製鋼取締役
1946年 日本製鉄常務
1947年 経済安定本部副長官(-1948年)
1948年 経済同友会代表幹事(-1950年)
1950年 富士製鉄社長(-1970年)
1969年 日本商工会議所会頭(-1984年)
1970年 新日本製鉄会長
1973年 新日本製鉄名誉会長
1984年 死去
父:永野法城
母:清水ヤエ(清水吉兵衛の妹)
妻:大塚せつ(★朝鮮砂金鉱業社長 大塚栄吉の長女、★大塚肇)
長男:永野辰雄
二男:永野重正
三男:永野鉄三
長女:
二女:永野邦子(★日本銀行 太田芳郎の妻)◆永野辰雄
1928年 誕生
新日本製鉄
新日本製鉄常務
大同鋼板社長
父:永野重雄
母:大塚せつ(★朝鮮砂金鉱業社長 大塚栄吉の長女)
妻:堀川弘栄(堀川辰吉郎の四女)
長男:永野雄一
二男:永野弘二【高橋弘二】(大日精化工業社長 高橋靖の養子)◆永野雄一
東京電力
父:永野辰雄
母:堀川弘栄(堀川辰吉郎の四女)◆永野重正
1931年 誕生
1931年 山陽国策パルプ
父:永野重雄
母:大塚せつ(★朝鮮砂金鉱業社長 大塚栄吉の長女)
妻:広田和子(★住友金属工業相談役 広田寿一の二女)◆永野鉄三
1933年 誕生
三菱商事
父:永野重雄
母:大塚せつ(★朝鮮砂金鉱業社長 大塚栄吉の長女)
妻:朝海明子(駐アメリカ合衆国特命全権大使 朝海浩一郎の長女)
こちらの家系図にはショール・アイゼンベルグに嫁いだと思われる長女に関する情報が一切ありませんね。
それだけ大物財界人だった永野重雄が堀川辰吉郎やアイゼンベルグと関りがあることを国民に伏せておきたいということなのでしょう。
Wikipediaは調べものをする際に便利ではありますが、イルミナティにとって都合が悪い情報は削除されたり、信憑性に疑問がある情報で人々を惑わしたりと、情報操作が頻繁に行われているので、別の情報ソースにて確認をすることが必要ですね。
鳩山一郎の息子・威一郎も堀川辰吉郎と親しい関係にあったようですが、永野重雄を中心として先ほどのカレルギー人脈と合わせてみると以下のようになります。
- カレルギー ⇒ 鳩山一郎 ⇒ 永野重雄 ⇒ 塚本素山 ⇒ 池田大作
- 頭山満 ⇒ 堀川辰吉郎 ⇒ 永野重雄 ⇒ 塚本素山 ⇒ 池田大作
カレルギーと頭山満・堀川辰吉郎が世界統一政府(NWO)について同時期に似たような計画を立てていたということは、RAPTブログの以下の記事でも紹介されていました。
◯RAPT×読者対談〈第106弾〉出口王仁三郎と日本軍による世界征服計画とその失敗。
また、こちらのサイトによると、永野重雄は「五龍会」の一つ「黒龍会」の総長だったということです。
- 八咫烏総長:堀川辰吉郎
- 緑龍会総長:上田吉松
- 赤龍会総長:上原勇作
- 黄龍会総長:中山忠英
- 白龍会総長:杉山茂丸
- 黒龍会総長:永野重雄
この緑龍会総長・上田吉松が出口ナオと共に皇道大本を立ち上げた初代・上田音吉に該当し、創価学会初代会長・牧口常三郎の父であり、創価学会二代会長・戸田城聖、大本教主輔・出口王仁三郎、笹川良一、畑中理の祖父でもあるそうです。
また、五龍会の黄龍会総長・中山忠英は大日本皇道立教会の初代会長であり、大日本皇道立教会に所属していた上田吉松(音吉)の子孫の牧口常三郎と戸田城聖が後に創価教育学会を設立し、現在の創価学会につながっていきます。
以下の家系図を見ると、上田吉松(音吉)と中山忠英は天皇家を介して血縁関係であることが分かります。
この系図の人脈に堀川辰吉郎とその配下である「五龍会」「世界紅卍字会」「満州人脈」などの関係者たちが絡んでくる構図になります。
ここに岸信介・佐藤栄作兄弟の従兄弟から吉田茂につながる政治家たちの系図を加えてみます。
またこちらのRAPTブログの記事を読むと、政治家だけでなく三菱やトヨタなどの大企業も天皇家と親戚関係にあることが分かります。
◯天皇とワールドカップの強い結びつき。ワールドカップが盛り上がると、悪魔が喜ぶ仕組みになっています。
◯トヨタと天皇と安倍晋三はとても近い親戚です。現在も日本経済を支配しているのは、大室寅之祐に与した「田布施一族」です。
◯NWOも原発もNHKも自動車もタクシーも、全てがフリーメーソン絡みの天皇の親戚一同の儲け話です。
◯ケムトレイルも天皇家一族のボロ儲けの種。この世の陰謀論は、天皇家一族の悪事を隠すための情報撹乱である。
このように系図を通して見ていくと、日本が天皇家を中心とした一部の上級国民によって支配されていることがはっきりと分かりますね。
引用箇所が長文であり、どちらかというと創価学会より大本に関する情報になるため非表示にしていますが、牧口常三郎・戸田城聖につながる上田吉松(音吉)のルーツに関する情報になります。
吉薗周蔵
近代史の核心に触れる第一級資料
『陸軍特務吉薗周蔵の手記』は、元帥上原勇作付の陸軍特務吉薗周蔵が自らの経験と見聞を記した手記を、ある月刊誌のために落合が解読して解説を加えたものである。副題を「佐伯祐三・真贋論争の核心に迫る」としたのは、当時世上を騒がせていた佐伯絵画の真贋問題に関する新説という一面があるからであった。当時、手記の全容を知るのは吉薗の遺族以外は私だけで、この手記がまさか日本近代史の極秘部分に触れる第一級史料と知る由もない。編集者が〝佐伯の真贋問題に一石を投ずる新資料〟ぐらいに値踏みしたとしても無理はない。私にしても、一覧しただけでは個々の記載の意味が掴めず、とりあえず佐伯関係に絞るつもりで連載を始めたのである。爾来、営々一〇年も続くとは、誰が予想し得たであろうか。
しかし、連載に取りかかった私がすぐ感じたのは、佐伯関連だけを抜粋したのでは、手記の真作性と信憑性が読者に伝わらないおそれである。第一、それでは解読すらできない。従来の歴史常識とはまるで異なる内容に触れたら、大方は戸惑うだろう。そこで、手記の真作性と信憑性を証明することが先決と感じた私は、手記の全文を原文のまま掲載することにした。その文体・用語を見ただけでも、具眼の読者なら真作性を直感されるものと信じたからである。
常識を覆すといえば、佐伯祐三に関する記載もその一つである。しかし、佐伯に関しては、手記以外にも佐伯本人の手紙やメモなどが残されており、遺作もたくさんある。妻米子が出した手紙も多いし、佐伯夫妻に関わり合った藤田嗣治や薩摩治郎八の手紙もある。それらを分析することで、吉薗周蔵と佐伯の関係は合理的に立証され、それが吉薗周蔵の実在を証明することにもなる。こうして、手記の新作性はもとより、その信憑性をも主張しうる自信が湧いた。
前稿を編年体で構成したのは、解読には記述者の体験の流れにしたがうしかないからで、各条を時系列順に解説した。そのため、相互に関連する多くの事件がマンダラのよう縦横に展開することとなり、一〇年に亘る連載全体を隅なくご覧にならなければ、理解が難しくなった。真作性の証明のためとはいえ、読者に多大な負担をお掛けしたことをお詫びしたい。
さて、再び稿を求められた私は、ここに志を新たに連載を始める。前稿一〇年の連載中は、各条に関する掲載の後になって新たな情報を得たり、解釈の不徹底に気づいたことが少なくない。それらの新情報と新解釈を以て補充した本稿は、内容に深みが加わり、歴史の真相に一層近づいたと自負している。ついては、前稿の編年体を紀伝体に改め、以て読者のご理解の得やすきを願った。もう一つ、吉薗周蔵手記の実在性、・真作性の証明はもはや達成されたと思うので、本稿では原文の掲載を敢えてせず、必要のある場合に限り引用することとしたい。
日向国西諸縣郡小林村字堤の吉薗家
新たな読者のためにも、手記の記述者に関する説明から始めなければなるまい。吉薗周蔵は明治二七年(一八九四)五月一二日、宮崎県西諸縣郡小林村字堤(今の小林市堤二三九六番地)で、吉薗林次郎と妻キクノとの間に生まれた。
小林の地は宮崎県の山中の盆地で、西南は直線一〇㌔㍍に聳える霧島山が鹿児島との県境を成している。小林から霧島山頂に向けて、真っ直ぐに二十キロ㍍延ばした先は鹿児島県国分市で、険しい霧島山塊の山麓を右側から迂回すると、到達する。左回りは都城を経由することになるが、それでも国分に行ける。そして、国分からは鹿児島城下もそう遠くない。
周囲を山林に囲まれた小林盆地は、島津本家の領地だったから、住民は薩摩人を自認している。江戸時代からよく開墾され、日向米や雑穀・野菜のほかタバコなどの換金作物に恵まれ、薩摩絣の賃加工生産も発達している豊かな土地柄であった。
吉薗家のように「薗」の字の付く姓は、盆地を支配する大隅隼人の末裔である。近世は専ら農業に携わり、米作のほか畑作では国分(葉たばこ)が多く、賃加工による薩摩絣の製造も行い、山中にいながら薩摩節(鰹節の一種)の生産にも関与していた。大正七年に持山の四分の一を売っただけで三万円になったほどの大地主で、換金作物の比重が大きいから、金回りもよかった。
代々の縁組み先は、木下氏・内竹氏ら大隅隼人系で、各家は薩摩藩士とも縁を結んでいた。当地の豪族で、古代に陸奥国築館の岩切から移ってきた橘姓岩切氏との縁も深く吉薗の家紋の「丸に橘」は岩切氏にあやかったものという。家の宗旨は浄土真宗本願寺派である。
周蔵の祖母・堤(吉薗)ギンヅルの生涯
周蔵の血筋はしかし、吉薗家代々のものではない。父は吉薗家のギンヅルが生んだ公家堤哲長の子で、吉薗林次郎と称した。そのギンヅルも都城藩士四位具張が岩切氏の女に産ませた子で、吉薗には養女に入ったのである。母のキクノは隼人系の木下家から嫁いできたが、その母系は未詳である。
つまり、周蔵の血脈は公家の堤家、隼人の木下家、縄文系の岩切家、薩摩武士の四位家から受けている。隼人族は広義の縄文人で、公家の堤家も、諸般の考察から、縄文血統と推定されるから、周蔵の血脈は縄文系で、それもかなり濃いものである。
ただし、周蔵の容貌は髭が濃く、彫りが深くて日本人離れしており、後年欧州に行った時には東洋人と見られたことは一度もなかった。実姉のミキに至っては眸の色が茶色だった。これを怪しんだ周蔵が後年調べたところ、日向海岸で馬を飼っていた岩切家に欧州系船員の血が入った証拠を掴んだとのことである。
周蔵の人生路線の始点は、時の陸軍大臣上原勇作との関わりである。その路線を敷いた祖母ギンヅルのことは今日まで全く世に知られてはいないが、大正・昭和初期の陸軍を二〇年にもわたって支配した上原元帥の叔母に当たり幼少から育てた上原を通じて日本近代史を裏から動かしていた人物なので、ここにその背景を詳述しておきたい。
ギンヅルは天保七年(一八三八)に生まれ、昭和六年(一九三一)に他界した。父は都城藩士の四位次兵衛昌張、母は後妻の岩切氏(名不明)である。四位家の先妻有馬氏がタカを生んで他界した後を受けて足入れした岩切某女は、双子の女児を生んだため畜生腹として四位家を逐われ、妹娘のツルを抱いて入水を遂げた。姉娘ギンは母の実家の岩切家で育てられ、妹の名を貰ってギンヅルと名乗ったという(落合注・双子の名前がキンヅル、ギンヅルだったフシもある)。
六歳になった天保一二年(一八四一)、ギンヅルは吉薗喜佐に嫁入りする叔母岩切某女の連れ子と成り、喜佐夫妻の養女となった。その際、実家からは二〇町歩の田地山林のほか、耕作・管理人として木場伊作・トラ夫妻と一三歳の息子周作が付けられた。木場家は当地でヤマンゴと呼ばれる山民である。
翌年、弟の萬助(一八四二~一九〇一)が生まれた。総領の姉とはいえ、生い立ちの事情もあって吉薗家に居づらかったギンヅルは、自ら志し、一五歳にもならぬ身で単身京に上り、実家岩切氏の縁を辿って京の薩摩屋敷に出仕した。筆も立ち、茶礼・立華・作法など教養全般を身につけたぬきんでた才女のギンヅルは、やがて薩摩屋敷の女中頭に昇るが、そこで公家の堤哲長と知り合う。直ぐに哲長の妾となったギンヅルは薩摩藩邸を出て京の市中に一家を構えた。
この経緯は決して偶然ではない。ギンヅルの生家の西諸県郡細野村の岩切家は、同郡小林村の名士で明治時代に西諸県郡長を出した堤家とは近縁であるが、その堤家が公家の堤家と血の繋がりがあったのである。つまり、ギンヅルと哲長の間には元々同族としての因縁があったわけで、このような遺伝子の共振共鳴現象は、注意していれば、巷間しばしば見受けられる処である。
周蔵の祖父・堤哲長は孝明天皇の側近
堤家は格式を名家という下級公家で、江戸中期に甘露寺家から分かれた。家禄は蔵米三〇石三人扶持で、甘露寺の二〇〇石、武者小路・勘解由小路の一三〇石と比べても格段に小さく、典型的な貧乏公家であった。公家でも旧家ならば、甘露寺・勘解由小路の儒道、武者小路の歌道のように定まった稼業があり副収入に繋がるが、堤家にはそれがなかった。
正三位右兵衛督に昇った堤哲長(一八二七~六九)は孝明天皇の側近で、絵筆も立ち、泉湧寺に今も伝わる孝明天皇像を描いた才子であった。哲長が一〇代の時、御霊前に住む町医師渡辺家の娘ウメノ(ウメ、クメあるいはクメノかも知れぬが、一応ウメノとしておく)が堤家に女中奉公にきた。
ウメノは数歳年下の哲長とすぐに親密になり、家伝の薬事書を持ち出して哲長に筆写せしめ、医術を手解きした。そのお陰で哲長は医薬を覚え、医師の副業によって、幕末の貧乏暮らしを凌いだのである。ウメノはやがて哲長の種と称する一子を生み、それを機に哲長の許を去った。
ウメノの後の妾となったギンヅルに哲長が薬事と医術を教えた処、思いがけぬ才能があった。江戸時代にひそかに海外と通商していた岩切家では、国分(葉たばこ)栽培の裏作として外国の薬種を栽培し、それを用いた製剤も行っていた。そのためか、岩切で生まれ育ったギンヅルには薬事の素養があり、おまけに商才も中々のものであった。幕末の一時期、ギンヅルは哲長を誘って故郷小林に赴き、長く逗留して二人で山村医療に携わった。
哲長とギンヅルの間には二人の子が生まれた。一人が慶応元年(一八六五)生まれの林次郎だが、もう一人についてはギンヅルが細野の堤家に入れようと画策したようだが、その間の経緯とその後の消息は不明である。
ギンヅルは林次郎の諱として、堤家と本家の甘露寺家が代々の通字として用いる「長」の一字を要求した。堤家の子息としての認知を要求したわけである。これを認めて堤次長の名乗りを許した哲長は、明治二年(一八六九)四月、三九歳を一期として他界してしまう。
哲長には、長子雅長はじめ数人の子息がいた。三男の玆明は津和野藩主亀井玆監の養子となり、亀井二万石の家督を継ぎ、明治期に伯爵となった。先ごろ郵政民営化に反対して自民党を去った元国土庁長官亀井久興氏はその直系曾孫で周蔵の血族五親等に当たる。四男の国敏も、住吉神社宮司津守家(後の男爵)へ養子に出された。津守家は堤家の縁戚である。
逆に堤家には本家甘露寺から功長と萬長が養子に入る。嫡男の雅長が居りながら、哲長の跡を継いだのは、甘露寺から来た功長であった。後に子爵となった功長は、雅長を養子にしたが分家させ、実子の雄長に子爵家を継がせた。このような公家の相続法は一般から見ると真に不思議である。
また、諸侯二万石の亀井家が、下級公家から、それも系図上では全く縁の遠い堤家から養子を取って、二万石の家督を継がせたのも、何とも奇異である。(落合注・これには隠された家系の謎があるものと思う)。
とにかく、哲長の認知により、一旦は次長と名乗った林次郎は、新当主の功長から存在を無視されたらしく、それを何とか堤家に入れようとして数年も京都に居座ったギンヅルだが、遂に諦めて吉薗家に戻ってきた。時に明治五年であった。
渡辺ウメノと政雄にまつわる数多くの秘話
渡辺ウメノが生んだ哲長の種と称する一子は、性別ははっきりしないが、女子と思える。とにかくその子を通じて、ウメノの孫の渡辺政雄が生まれた。政雄は大正六年ころ盛岡医専を出たらしく、周蔵と同年輩である。
手塩にかけて育てた政雄を、ウメノが医専に入れたのは、上田吉松・出口ナオらと組んで始めた皇道大本(いわゆる大本教)の仕事に携わらせる目的があった。外科医となった政雄はそれを警戒し、同じ哲長の孫として従兄弟にあたる周蔵を頼り、大正六年に東京に移ってきた。政雄は、周蔵が作った上高田救命院という私設研究所で、ケシ栽培の研究を行う。この間の経緯は、中華民国留学生の周恩来や王希天・呉達閣が登場して甚だ面白いのだが、それは別に述べる。
政雄は後年、祖母渡辺ウメノの母系の丹波国桑田郡曽我部郷穴太村の上田家の伝承を、周蔵に詳しく教えた。ウメノが哲長に教えた薬の原料は特殊のケシで、その種子は江戸時代にオランダから入ってきて穴太村上田家に伝わったものらしい。穴太村は、古代に朝鮮半島の南端の迦羅の安羅(アナ)から渡来してきた石工穴太(アナフ)衆の旧址である。
穴太村を本拠とする上田家の家伝では、上田の本姓は海部で、丹後一宮の籠神社の神官から出た旧家である。海部・上田家は、古代に渡来したイスラエル族の子孫で、なかでもアヤタチと呼ばれた特殊の家系という。これは、戦前の皇国史観や戦後の弥生史観に泥んだ耳には荒唐無稽に聞こえるかも知れぬが、他の伝承などに照らしても、充分首肯しうるものである。
さらに、古くからオランダ取引をしてきた上田家には、夙にオランダ人の血が入り、吉松の五代前の先祖で画名を丸山応挙として知られる上田主水も、オランダ血統であったという。幕末の当主は上田吉松で、「言霊呼び」という御祓いをしながら、全国を巡ってケシ薬を売り、裏では朝廷の諜者として働いていた。
その子が上田鬼三郎(注・これが本名で、どこかで喜三郎と変えたらしい)で、すなわち後の大本教(皇道大本)の聖師出口王仁三郎である。渡辺家に嫁いだ吉松のオバ(叔・伯は不明)がウメノを生むが、そのオバがケシ薬の秘伝を渡辺家にもたらしたものと考えられる。いとこのウメノを愛人としていた吉松は、同じような関係にあった出口ナオと図って、明治二五年に皇道大本を立ち上げるのである。
なお、周蔵は大正三年に青森県下北郡の古畑温泉で吉松に会ったことを手記に記している。吉松の没年は、伝えられている明治初年とは大違いで、本当は大正年間まで長生きしたのである。
卍党とスマイル党
皇道大本も俗に「大本教」と呼ばれますが、これはグレート・キリスト教という意味となる。この大本を構成する勢力が日本の仏教や神道に入り込んだキリスト教勢力「卍党」であり、文字通り大本は大元。で、その正体は丹波綾部に住む信州上田氏をアヤタチ(棟梁)とする穴太衆。ただ、このキリスト教はイエズス会のザビエルが伝えたカソリックではない。もっと古くから日本に入り込んでいるキリスト教です。
即ち、語り部説によれば扶余国から渡来招聘された騎馬民族の初期大王家が持ち込んだのが「波斯教」とも云われる古代東方キリスト教。その後、小乗仏教を奉じている百済系の倭武(応神天皇)が人質として九州に上陸した際、宇佐神宮で洗礼を受け「ミカ」という洗礼名を授けられているが、これは表向きキリスト教に改宗したに過ぎないという。
※「宇佐神宮託宣集」には池の中から現われた3歳の童子が、自ら「応神天皇」=「八幡神」であると告げ、黄金の鷹となり松の木に止まったいう伝説がありますが、この池が宇佐神宮の「三角池」であり、イエスの洗礼時に鳩が舞い降りた逸話をモチーフにして応神天皇がバプテスマを受けたことの事跡を表している。初期大王家の本拠地が岐阜の本巣市ですが、ここにも「本」が付き、「本(キリスト教)の巣(本拠地)」ということを表しているのではないでしょうか!
※本巣市は内陸型最大の地震であった「濃尾地震」の震源地。また継体天皇の手植えの桜「薄墨桜」がある場所としても知られる。穴太衆は石積で知られていますが、古代に朝鮮半島の南端の伽耶国の安羅(アナ)国から渡来してきた石工穴太(アナフ)衆だとされている。しかし、穴太村を本拠とする上田家の家伝では上田の本姓は海部(アマベ)といい、丹後一宮の籠神社の神官から出た旧家の出と称している。さらに上田家は古代に渡来したイスラエル族の子孫で「アヤタチ」と呼ばれる特殊な家系だという。
※穴太石工の栗田氏は、穴太衆は四国東部の「阿波国」から来たという。阿波国は初期大王家の忌豊富らのレビ族がが移り住んだ地でもあるが(阿波忌部)、何か関連があるのだろう。アヤタチとは「怪立」と書き、上田伝承(吉薗周蔵手記)では、海岸沿いに住んだ海人族が天孫族との戦いから海沿いの僻地へと逃れた際、選ばれし者が僻地には行かずに山岳部に入った集団だとのこと。配下に透破(みすかし)・突破(つきさし)を従えているという。
※アヤタチはサンカの頭領という三角寛の説と上田伝承のように「アマベらが錬金術(鉱山採掘)を修業する時の名前」と伝えるものとがある。サンカのアヤタチである丹波穴太村の上田家はポルトガル商人を相手に直接生糸を輸入。またオランダとも貿易をしていたといい、マカオのオランダ人と華南人の二世であるマカイエンサを受け入れてもいた。オランダ取引で知り合ったことで血筋にもオランダが入っていると云われるが、混血主義が基本なのだという。これは天孫族の「純血主義」とは対極にある。ポルトガル(イエズス会)とオランダ(メソーン)のどちらにも顔が効き、ある意味、日本でヘッセン=ナッサウ勢力に一番近い家系なのかもしれません。日本に巣食うヘッセン=ナッサウ勢力と連携する勢力とはここなのだろうか?
上田家は真田幸村で知られる信州上田を出自とし、生糸貿易から西陣織を支配。またオランダからの輸入雑貨を扱う「尾張屋」を京に出店ており宮中にも出入りしていた。江戸時代末期の当主・上田吉松はケシを用いた御祓いを看板に全国を徘徊し、公家の密偵を務めていたという。
吉松の五代前の先祖が、幽霊画で知られる丸山応挙(上田主水)です。
上田吉松の子が、創価学会の初代会長の牧口常三郎、北朝鮮残置者の畑中理(金策)、日本財団の笹川良一であり、孫が大本の上田鬼三郎(出口王仁三郎)、創価学会二代目会長の戸田城聖であるという。ちなみに、明治25年にいとこで愛人の渡辺ウメノと、愛人の出口ナオと3人で東北で大本教を開教した。彼らが興した大本教はバアル神の日本名・スサノヲを奉じているが、これはアヤタチの上田家が信仰していたバアル、イシュタル、ミロクから来るが、北イスラエル国と同様、多神教でもある。
スサノオ同様、バアルは地に封じられた神であり、地祇系に分類されるのは、ここから来ているのでしょう。この祭りが銅鐸祭祀。ただこのバアル信仰(蚩尤信仰)も倭武大王(応神)の御世、キリスト教への強制改宗によって破棄させられた。
上田吉松は青森県下北郡に流れて槇玄範を名乗った。その後、長男・鬼一郎に下北郡の医師・槇玄範を継がせ、自らは死去を偽装し氏家省一郎と称した。鬼一郎の子が笹川良一と陸軍中野学校出身で北朝鮮残置謀者となった畑中理(金策)。
新潟県柏崎市の漁師・渡邊長松とイ子(いね)の間にはで双子の兄弟が誕生しているが、但し、それは戸籍上であり、渡邊長松が海で行方不明になってからイ子は双子を生み、離婚している。この時、イ子に接近していたのが上田音吉。双子はそれぞれ「父親知らず」としてと逸見家と牧口家に養子に出されたという。兄が逸見十郎太(戸田城聖の父)で弟の方が創価学会の初代会長の牧口常三郎。
初代の上田吉松と妻の宇能(中村孝道の姪)との間に生まれたのが世祢(よね)。「初代吉松」はなぜか突然、娘の世祢19歳の時、兄弟(世祢にとっては叔父)の経営する伏見の船宿に養女に出す。その船宿は有栖川宮熾人親王のお忍びでの定宿。ところが何故か世祢は突然上田家に戻り、二代目吉松(船井郡川辺村船岡の紺屋、佐野清六の次男)を婿に迎え、鬼三郎(出口王仁三郎)を産んだ。
創価も大本も北朝鮮も日本財団も皆繋がっていたのですね。
故・笹川氏の言っていた、、、
「世界は一家、人類は皆兄弟」
というキャッチコピーは、ダテじゃなかったのだす。創価学会の母体となった大日本皇道立教会は、南朝の皇道教育機関として、中山忠英(父親は天誅組の中山忠光)を初代会長に大隈重信、一木喜徳郎、牧口常三郎、戸田城聖、数名の華族という装そうたるメンバーで構成され1911年に設立された。しかし、表向きは南朝教育機関なのだが、その裏の正体は北朝皇統の復権を伺う組織。
明治維新後、教育制度発足に伴い子供達が学校に行くようになった為に農村では深刻な人手不足に陥った。これを補うために済州島を中心に朝鮮から半島で食い詰めた白丁階級を呼び寄せ労働力としたが、現代の日系ブラジル人の投入と同じようなもの。この渡来した白丁層の2世3世を取り込んで大きく成長したのが創価学会であり、朝鮮系に乗っ取られた格好。二代目会長の戸田城聖の後を半ば強奪したのが池田太作で、GHQの日本間接代理支配の道具としてこの頃から創価学会は変貌していき、本来の北朝皇統復権という裏目的とは180度変わって、CIA直属の統一教会同様、現南朝皇統側のの守護に回っている。まぁ、表向き南朝皇統の教育機関だったから問題はないのだが、、、「永住外国人の地方参政権付与」も半島における創価学会の布教認可と引き換えの密約によるものと噂される。(ふぉふぉふぉ)
以上のように全ては皇道大本へ、、、金神教の大江山霊媒衆こと卍党(仏教や神道の仮面を被ったキリスト教)に繋がっていくのですが、卍党の正体とは初期大王家に繋がる家系であり、天孫系(百済系)にまつろわぬが故に「鬼」とされた者たちではないかと睨むが、大本を生んだ綾部のアヤタチが黒龍会の中核なのか?
※名無し先生の話では綾部は朝鮮半島の伽耶(かや)諸国の一つ安羅(あら)国から渡来してきた中国系の帰化氏族で「東漢」であろうとのこと。これが「客家に見える漢人」。一方、語り部は東漢は邇波駒子の流れであり縄文系アイヌの流れであるといい、ここに差異があるが、綾部が伽耶国関連である点では共通する。アヤタチ上田家がスサノオ(バアル)信仰を捨てていないことは大本を見れば明白なのだが、それと卍党という仏教や神道の仮面を被ったキリスト信仰者という部分が矛盾する。しかし、スサノオ=再臨のイエスという捉え方をすれば、救世主再臨思想(弥勒思想)を植え付けるには、まずキリスト教的枠組みの受け入れをさせ、そこから弥勒思想に誘導していく。これが卍党がキリスト教に拘る理由ではないかと睨む。
メーソンの中核を為すテンプル騎士団が奉じているのがバフォメット=モロク=バアル神であり、イエズス会もローマのカタコンベで同様の悪魔崇拝儀式をしている。いづれも偽装的にキリスト教徒の振りをしており、卍党のアヤタチ上田&大本も同様で上層中核に至るに従いキリスト教信仰からバアル神信仰に変わっていく。卍党のキリスト教販促も道具に過ぎないのかもしれません。
このようにヘッセン=ナッサウ勢力はバアル神信仰(バアルは蘇ってフェニックスとなって再誕)という箇所で一括りが可能。その先には、第三次世界戦で荒廃した世界経済をイエスの血胤末裔を称するヘッセン本家のマウントバッテン・ウィンザー家が救世主的に登場し、世界を救済するというシナリオが控えているわけだ。(ふぉふぉふぉ)
その卍党が推し進めるのが東西分断及びネオ満州国の建国。
つまり、東北の天神系、江戸に東遷した天孫系を排除して、西日本と半島・満州だけで経済圏を作ろうという野望なのであろう。ハシゲ大阪市長が進めている「大阪都構想」は多大な行政コスト(都移行に280億、選挙に毎年60億)が生じるが故に、大阪経済が今よりも地盤沈下を起こすものであり、また日本列島の東西分断にも通じる。最終的に地盤沈下への活路を見出すという口実から「ネオ満州国」建国に誘導されるかもしれない。
※ハシゲの背後は元統一教会信者の集団といわれ、資金源はマルハン等の在日系企業だと云われるが、どうもハッキリしない。ただ、ハシゲは権力のある者のパシリになる傾向が強い為、河村たかしの減税党とは組まずに石原珍太郎と合流して日本維新の会を立ち上げたのだろう。珍太郎は右翼勢力とも交流があり、ここから頭山満の玄洋社(戦後にGHQの命令により解散)…等の黒龍会(卍党)にも繋がっている。そして竹中平蔵にも、、、、
ちなみに、巣鴨プリズンから出所して公職追放の身分だった岸信介は、永野重雄の兄の永野護らと共に製紙会社を立ち上げ、岸が会長として就任しています。
アイゼンベルグ商会
★アイゼンベルグ商会
ショール・アイゼンベルグの妻は永野重雄家の娘(長女)の可能性。
では、1940年頃に結婚したのはいかなる縁なのか?
この事を考察するには、永野重雄の長兄・永野護について調べてみる必要があります。永野家
●永野家(広島県)(閨閥学)
●永野重雄ー政界財界官界に張り巡らされた華麗なる閨閥集団ー(近代名士家系大観)
●永野護(2016年1月5日 (火) 13:17 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
永野護(ながの まもる、1890年9月5日 – 1970年1月3日)は、日本の実業家。政治家。衆議院議員、参議院議員。島根県濱田市生まれ。戦後揃って政経財界で活躍した「永野六兄弟」の長兄。
……
護の東大の親友が渋澤榮一の子息だったため、渋澤は護の苦境を知り、息子の勉強相手という名目で月額50円の謝礼を出した(2010年代前半の貨幣価値では約40 – 50万円に相当)。護はそれを郷里に仕送りし、弟妹の養育費に充てた。弟5人は全員大学に進学している。東大法学部を、後に最高裁判所長官を務める田中耕太郎に次ぐ二番で卒業。就職先には事欠かない立場であったが、渋澤の秘書・顧問弁護士となり、後半生を渋澤の番頭格として尽くした。
……
戦後、出所後の岸信介を会長、社長を足立正、取締役に永野、藤山愛一郎、津島寿一、三好英之、監査役・瀬越憲作とする東洋パルプを設立。広島銀行をバックに広島県呉市に工場を建設するが、うまくいかず王子製紙に売却した。1956年、広島県選挙区から参議院議員に当選。同年、対フィリピン賠償交渉の全権委員を務めた。つまり、永野家は渋沢栄一と非常に強力な繋がりがあったのです。
渋沢家
ウィキペディアにある「護の東大の親友」というのはおそらく、渋沢正雄でしょう。
●澁澤正雄 ー旧財閥、澁澤一族ー(近代名士家系大観)
年齢から考えると、永野護が東大生だったのは、1910年前後。
渋沢正雄の弟達の家庭教師みたいなものをしていたのでしょう。
アイゼンベルグと永野重雄の娘の結婚はここから30年後になります。渋沢栄一は永野家を後継として育て、永野家兄弟によりハココネが引き継がれたのです。
そして、渋沢正雄の会社でもある日本製鐵で永野重雄を育てた人物といえば、
三鬼隆です。三鬼隆
●三鬼隆(2016年8月18日 (木) 06:56 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』
三鬼隆(みき たかし、1892年1月14日 – 1952年4月9日)は、日本製鐵・八幡製鐵(現・新日鐵住金)元社長。鉄鋼業界の大御所だった。岩手県花巻市出身。父は実業家・政治家の三鬼鑑太郎。長男は元新日本製鐵会長の三鬼彰。出川哲朗の大伯父にあたる。
……
1952年(昭和27年)4月9日、日航機もく星号墜落事故で遭難死した。
……
人物
……
日本製鐵社長時代の直属の部下・永野重雄を育てたことが大きな功績として挙げられる。日本製鐵関連会社を通じて、その三鬼隆と親しかったのが塚本素山です。
また、永野重雄は池田大作より一足早く、財界の代表として訪中し、周恩来総理と会談しています。
1971年には、日本の財界首脳が訪中団を送り込んだ。1971年9月に佐伯勇を中心とした関西財界訪中団が、同年11月には永野重雄日本商工会議所会頭と木川田一隆経済同友会代表幹事を中心とした東京財界訪中団が訪中し、北京の人民大会堂で周恩来総理と会談した。このとき周総理は永野重雄に「これで日中関係、完全に修復しました。我々は今後いかなる日本人も歓迎する」と言ったといわれる。日中国交正常化は、こうした日本財界主流による訪中の成果の上に成ったものという評価もある。
このような人脈のつながりが見えてくると、戦前は別個に活動していたカレルギーと頭山満・堀川辰吉郎・出口王仁三郎(大本)らによる世界統一政府の実現が、永野-塚本ラインを介して池田大作(創価学会)に引き継がれたであろうことが想像できます。
塚本素山の人脈が多岐に亘るため、岸信介との関係に留まらず池田大作やカレルギーにまで話題が広がってしまいましたが、蓋を開けてみれば、池田大作を創価学会の三代目会長に就任させたのも、池田大作とカレルギーを引き合わせたのも塚本素山だったということが分かりました。
中国発のコロナウイルスがSGI(創価学会インターナショナル)会員が多い土地でパンデミック騒動を起こし、世襲議員ではない菅義偉が創価学会のバックアップで日本の首相を務め、親中派のバイデンが不正選挙によってアメリカ大統領選挙で勝利したことを考えると、現在世の中で起きている不可解な出来事には、この「塚本素山」の活動が多大な影響を与えていると言えるのではないでしょうか。
また、塚本素山は満州人脈において岸信介の部下だったという情報もあります。
“続きはこちらから”以降の記事によると、ほとんど独立国家だった関東軍・満州国を支配したのが、岸信介と東条英機とのこと。その岸信介が“あれは侵略戦争だった”と言ったのですから、これはもう間違いありません。本人が言っているので、美化のしようがないわけです。
2つ目の記事の、日本軍が略奪した宝石・貴金属コネクションの表の中にある人物は、全員が2代目裏天皇・堀川辰吉郎の部下です。具体的には堀川辰吉郎の直接の部下が岸信介。岸信介の部下が塚本素山、笹川良一。笹川良一の部下が児玉誉士夫。ジョージ・パーディは分け前をもらうことで、裏天皇側に寝返ったようです。記事によると塚本素山は創価学会初代顧問のようで、3つ目の記事と合わせて読むと、戦後日本の裏支配の様子がよくわかるものになっています。
岸、笹川、児玉は、CIAのエージェントであったというのは常識ですが、実際には日本が国力をつけなければアメリカからの独立は出来ないため、彼らと協力関係にあったわけで、2重スパイと言える存在です。彼らは全員、真の独立を目指す裏天皇に仕えていたからです。
この情報が事実なら、裏天皇・堀川辰吉郎の部下たちが日本のイルミナティの復権を目的として共に活動するのは必然であり、戸田城聖が巣鴨プリズンに何度も通っていた理由も明白ですね。
今回は岸信介から安倍晋三まで続く創価学会との親密な関係について調べてまとめてみましたが、その背後にある人脈や設立目的を知ると、自由民主党と創価学会が単なる政治団体や宗教団体ではないことをご理解いただけたかと思います。
次回は田中角栄と創価学会の協力関係と、田中派から独立して経世会を旗揚げした竹下登から小渕恵三内閣まで続いた、経世会が自由民主党内で主流だった1980年代後半から1990年代の自由民主党と創価学会との関係を考察してみたいと思います。
世の中の悪が全て滅び、あなたに救いがありますように。
あなたがたのなすべき事はこれである。あなたがたは互に真実を語り、またあなたがたの門で、真実と平和のさばきとを、行わなければならない。あなたがたは、互に人を害することを、心に図ってはならない。偽りの誓いを好んではならない。わたしはこれらの事を憎むからであると、主は言われる。
ゼカリヤ書 8章16~17節