北野武 ✕ 李光洙(イ・グァンス)

北野武と李光洙が似すぎている件

最近ではお笑い芸人としてよりも映画監督や文化人として扱われることが多い北野武ですが、「朝鮮近代文学の祖」「韓国の漱石」と称される李光洙(イ・グァンス)にそっくりだということが分かりました。

また、以下のツイートからも分かる通り、上級国民たちはこの事実を庶民に知られたくないようです。

上級国民が隠していることを明らかにしていくことが、権力も資金力も持たない庶民ができる上級国民たちへの唯一の対抗手段ですので、さっそく北野武と李光洙がどれくらい似ているのか検証していきます。

北野武 北野武とそっくりな李光洙

北野武がサングラスをかけている画像なので目元が分かり難いですが、顔の輪郭や鼻と口の形状はそっくりですね。

目が見えなかったので別の画像で確認。

北野武 北野武とそっくりな李光洙

北野武の左目は閉じていますが、右目を比べると形状がそっくりです。

次は別の角度からも比べてみましょう。

北野武 北野武とそっくりな李光洙

北野武と李光洙は顎の先端から下顎角(えらの部分)までの距離感や、耳の位置までそっくりです。

耳の位置の違いから皇族に影武者が存在することがバレているように、耳の位置は意外と重要なポイントになります。

皇室ブログ・でれでれ草

ここまでの画像はメガネやサングラスのフレームが邪魔をして目元が分かり難いものでしたので、また別な画像を比べてみましょう。

北野武 北野武とそっくりな李光洙

濃くはないが角ばった眉山の個性的な眉毛・瞼の窪み・目の形状や大きさがそっくりですね。

北野武と李光洙の目元がそっくり

目元の部分だけを並べてみたら、目の下の隈までそっくりでした。

北野武 北野武とそっくりな李光洙
北野武 北野武とそっくりな李光洙

表情を作っていない素の顔を比べてみると、同一人物だと言われたらそのまま信じてしまいそうなくらいよく似ていますね。

ここまで似ていると、北野武と李光洙の関係が気になります。

李光洙とはどのような人物?

日本人にとっては李光洙はあまり馴染みのない人物ですが、彼の代表作である『無情』は韓国の国語の教科書に多数掲載され、「韓国の漱石」とも評される国民的作家です。

その李光洙ですが、実は日本と深いつながりがあり、現代の日本や私たち日本人にも因縁がある人物になります。

先ずは李光洙の生涯を簡単に見ていきましょう。

李光洙は1892年に李氏朝鮮の平安北道義州府定州郡に生まれます。

その後、10歳の時に両親をコレラで亡くし、1905年に留学生として来日し大成尋常中学校に入学しますが、学費が途切れて1906年に一時帰国します。

翌年の1907年に皇室留学生として再来日し、1910年に明治学院(現・明治学院高校)を卒業。(同年に日韓併合)

明治学院卒業後は朝鮮半島に戻り、五山学校の教員となりますが、1915年に内地留学という形で早稲田大学文学部哲学科に入学します。

早稲田大学在学中の1917年に発表した『無情』が人気を博したことから、次々と作品を発表し、作家として活動していくことになりますが、それと同時に朝鮮の日本からの独立運動に積極的に関わっていくことになります。

その後、数回の逮捕・釈放を経てから思想を対日協力路線に転換し、創氏改名の推奨に尽力し、自らも日本名を香山光郎と名乗り、第二次世界大戦中は朝鮮人が戦争へ積極的に参加するよう呼びかけたりもしました。

そのため終戦による朝鮮解放後の李承晩政権下では、反民族行為処罰法により検挙・投獄されるなどの後、1950年に朝鮮戦争勃発後に平壌に強制移送され、その後の消息は不明となっています。

また、2009年には日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法に基づき、親日反民族行為者の1人に認定されています。


参考資料

李光洙 – Wikipedia

李 光洙(이광수)Ⅰ 李光洙の評価をめぐって.pdf

三枝寿勝の「韓国文学を味わう」第IV章

李光洙(イ・グァンス)の生涯と作品.pdf


かなり簡略的な説明になりましたが、李光洙のおおよその人物像は掴んでいただけましたでしょうか?

まだテレビもインターネットもなかった当時、人気作家ともなれば相当な有名人であり、その言動が持つ影響力は非常に大きかったはずです。

その人物が朝鮮の独立運動に参加していた立場を一転させ、親日派に寝返り、創氏改名を推奨することになれば、日本名を名乗ることを躊躇していた朝鮮人たちの背中を後押しすることにもなったことでしょう。

李光洙の親日派への転向が日本名を名乗る在日朝鮮人を増やす一因になったと考えれば、田布施一族が中心となって行われた明治維新から続く李氏朝鮮系の帰化人による日本の支配に勢いをつけ、現在の日本の状況に少なからぬ影響を与えていることになります。

本当に余計なことをしてくれたものです。

天皇家という闇。日本赤十字社という闇。田布施システムという闇。悪魔崇拝者という闇。

日本が朝鮮人に支配されているという証拠。「田布施システム」こそが朝鮮人と金融ユダヤによる日本支配の始まり。

田布施町出身の安倍晋三と朝鮮人との深いつながり。今でもバブル経済で沸き立つ田布施一族の放蕩ぶり。

李光洙は親日派となったことから、戦後の韓国において売国奴のレッテルを貼られることになるのですが、彼は「朝鮮人は日本人よりも優れている、朝鮮人が国政に参加すれば日本を掌握することができる」という考えを持っていたようです。

朝鮮半島出身の田布施一族が明治維新を起こし、日本の権力の中枢に入り込み、実質的に支配している状況を知っていたからこそ、独立運動の指導者的立場から身を翻し、親日派として積極的な活動をしていくことになったのでしょう。

李氏朝鮮王室の血を引く安倍晋三による独裁とも言える政権が続く現在の日本の状況は、李光洙が思い描いていた夢(日本の庶民にとっては悪夢でしかありませんが)が現実になったわけです。

そうなると、李光洙は現在の日本の支配層にとっての功労者であり、上級国民ということになりますね。

先ほどの略歴にもありますが、李光洙は朝鮮戦争が始まると間もなく北朝鮮に連行され、その後の消息は不明となり、北朝鮮で病死したということにされていますが、確証はありません。

韓国国内に留まっていれば、いずれ暗殺されるか裁判にかけられて処刑されることも十分に起こり得るため、日本の上級国民が功労者の李光洙の生命を守るために、傀儡国家の北朝鮮を使ってどこか安全な第三国に亡命させたのかもしれませんね。

北野武と李光洙の関係は?

李光洙についての研究がここでのテーマではありませんので、本題に戻って北野武との関係について考えてみましょう。

李光洙のWikipediaを見ると、経歴に1946年 朝鮮に帰国。許英肅と離婚。と記されています。

「帰国」ということはやはり日本に滞在していたということになるのでしょうか。

李光洙が1946年に日本に滞在していた時に、誰か上級国民の家系の女性との間に子孫を残していたとすれば……。

北野武の生年月日は1947年1月18日とされていますから、この仮説も全くの荒唐無稽な話ということにはならないでしょう。

タイムライン的に二人が親子である可能性が見えてきたところで、次は北野武のルーツとなる北野家について調べてみましょう。

謎多き「北野家」

北野武のルーツとなる「北野家」に関する情報を調べていくと、北野うし(祖母)、北野さき(母)、北野菊次郎(父)の三名が登場します。

ところが北野うしは北野武の血縁上の祖母ではなく、戸籍上では大叔母(父親の叔母)という関係になります。

また、北野武の父親の菊次郎は、うしとの血縁上の関係は「叔母と甥」という関係ですが、うしが菊次郎をさきの夫とするために養子にしたため、戸籍上の関係は「養母と養子」という関係になります。

ちょっと複雑で分かりにくいため、先ずは祖母のうしの経歴から順を追って見ていきたいと思います。

北野うし

  • 1873年(明治6年)に現在の徳島県徳島市で粉問屋を営む北野鶴藏の娘として生まれる
  • 恐慌により家業の資金繰りが悪化したため、家計を助けるため上京し、竹本八重子の芸名で女義太夫として人気を博す
  • 明治天皇の御前で三味線を弾いたこともある
  • 海軍中尉との間に徳次郎が生まれたが相手には正妻がおり認知はしてもらえなかった
  • 女義太夫を引退後は義太夫や三味線の指導者をしていた
  • 三味線の指導で通っていた高山家の奉公人の小宮さきを気に入り、うしが日暮里で所有する土地に正木屋北野商店(洋品店)を出し、さきが働くようになる
  • 息子の徳次郎とさきを結婚させるも、結婚7か月目で徳次郎が虫垂炎により急死したため、さきを養女とする
  • 生き別れになっていた甥の正端菊次郎と偶然出会い、さきの婿養子とし北野家を継がせる
  • 北野武はうしに懐き、うしも「タケ殿」と呼んで可愛がっていた

息子の徳次郎は海軍中尉に非嫡出子(法律上の婚姻関係がない男女の間に生まれた子供)として認知してもらえなかったということなので、北野うしは未婚のシングルマザーということになりますね。

しかも海軍中尉となると海軍兵学校を卒業したエリートであり、皇族や後に大物政治家になった人物である可能性もあり、徳次郎は上級国民の隠し子ということになりますね。

また、北野うしが北野武を「タケ殿」と呼んで可愛がっていたのも、やはり特別な事情があるのかもしれません。

北野さき

  • 1904年(明治37年)に現在の千葉県市原市で農業を営む小宮家に生まれる
  • 戸籍上は1904年(明治37年)生まれとなっているが、父親が出生届を役場に出すのを数年忘れていたため、実際の生年月日は不明
  • 幼少の頃に母親や兄弟を相次いで亡くし、尋常小学校を卒業する頃に父親も亡くす
  • 東京の資産家・高山家に奉公にでて、トイレ掃除などの雑用の仕事を与えられる
  • 高山家に三味線の指導で訪れていた北野うしに気に入られ、うしが日暮里で経営する正木屋北野商店で働くようになる
  • うしの息子の徳次郎と結婚するも、結婚7か月目で徳次郎が虫垂炎により急死したため、うしの養女となる
  • うしの甥・正端菊次郎と再婚する

北野さきが北野武を出産した年齢は43歳ということになっていますが、戸籍上の日付よりも数年前に生まれていたとするとかなりの高齢出産になりますが、実際のところはどうなんでしょうか。

また、徳次郎がさきと結婚する前に亡くなったという情報があったり、結婚したとされる年が情報によって異なるところが気になります。

北野菊次郎

  • 生き別れになっていた叔母の北野うしと偶然出会い、北野家の養子となり、うしの養女となっていたさきと結婚し北野家を継ぐ
  • 「正端」という珍しい苗字は徳島にある勝瑞城に由来するらしい
  • 菊次郎の兄弟はみな母親が違ったらしい

北野菊次郎については「北野うしの甥」「北野武の父」ということ以外は、生い立ちや経歴に関する情報はほとんど出てきません。

NHKは「ファミリーヒストリー」で北野さきが子供の頃に親兄弟と生き別れたにもかかわらず、戸籍を入手し家族構成を調査していますが、菊次郎に関しては家族構成に関する情報は出さずに、「正端」という苗字のルーツを紹介してお茶を濁しているようにも感じます。

菊次郎の家系については何か知られてはまずい秘密でもあるのでしょうか?


参考資料

ビートたけし – Wikipedia

北野うし – Wikipedia

北野武の実家のファミリーヒストリー、祖母と母親と父親について

北野武の「ファミリーヒストリー」今夜。ヨイトマケの母とペンキ屋の父、そして…

ファミリーヒストリー 北野武 ビートたけし 父・菊次郎 母・さきの真実

教育第一の母さきは、若い頃「商才」にたけた頭の回転の早い女性だった。義太夫語りのアイドル、芸名「竹本八重子」の祖母・北野うしは、たけしの芸能のルーツ。


徳次郎まで含めると多くの謎に包まれた「北野家」です。

蓋を開けてみれば、赤の他人の寄せ集めということも十分あり得る「北野家」ですが、実際はどうなのでしょうか。

運よく北野武の兄の北野大も有名人(上級国民?)ですので、兄弟でどれほど似ているものか比べてみましょう。

北野武 北野大
北野武 北野大

以前は「兄弟」という先入観で見ていたため、何となく似ているような感じがしましたが、改めて見てみると目元や鼻の形状が全然違いますね。

李光洙とは同一人物と思えるほど似ていたことを考えれば、兄である北野大とはこれだけ似ていないのかと思ってしまいます。

あなたはどう思いますか?

過去に「ウチのオヤジは在日朝鮮人」と語っていた北野武

北野武は過去に「ウチのオヤジは在日朝鮮人」と語っていた時代があるそうです。

ビートたけしは在日韓国人?本名や生い立ち~父と母など実家と家族まとめ

その後、母のさきに怒られて訂正したようですが、勘違いだとしても日本人がわざわざ「自分は在日朝鮮人だ」と名乗るものでしょうか?

北野武が暫くの間はインタビューで「在日朝鮮人の血を引いている」と答えていることからも、自身のルーツを知っての発言だったのでしょう。

またこちらのリンク先には小宮さきさんは子供たちの内、長男・長女・次男は大学出身のエリートだった元夫の子供だと教え、無学だった北野菊次郎さんとの子供がビートたけしさんの兄・大さんと自身だけだと教えましたとありますから、兄の北野大ももしかして……という疑惑も生じます。

北野武のサインは自身のルーツを暗示したもの?

北野武のサインが「李光洙」を意識しているように感じたので、最後におまけの情報として付け加えておきます。

北野武のサイン
北野武のサイン(Wikipediaより)

「李」という文字は韓国語で「イ」と発音しますが、アルファベット表記だと「Li」となり、英語表記になると「Lee」となります。

サインの「北」という字を見ると「Le」と書いているようにも見えます。

画像

また、「武」という文字もかなり崩して書いており、「武」というよりも、寧ろ「李光洙」の「光」を意識して書いているのではないかと感じます。

画像

北野武はサインを通して、自身のルーツが李光洙であることを暗示しているのでしょうか。

果たして真実は如何に。

だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
マタイによる福音書 10章26節